2025年10月26日
「王であり祭司であるキリスト者」(説教要旨)
ルター著「キリスト者の自由」13章〜19章より
キリストは常に王です。キリストの国は、地上のものではなく霊の王国です。そこにあるのは、地上の宝ではなく、真理や知恵、平和、喜び、救いという霊的な宝です。キリストは、サタンの支配を打ち砕き、永遠の御国を打ち建てられました。キリストは天にあるもの、地にあるもの、陰府にあるもの全てを支配しています。
キリストは常に大祭司です。キリストはご自分から「罪なき神の子羊」と言う犠牲を献げられました。今キリストは、神の前に立ち、キリストを信じる者のためにとりなしておられ、また御霊を持って教え導いてくださいます。
「しかしもしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。」(ヨハネの手紙 第一 2章1節)
クリスチャンは、キリストとともに王であり祭司です。それはキリストが、キリストと信仰で一つに結ばれているクリスチャンに、キリストのものを分け与えて下さるからです。
「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」(ペテロの手紙 第一 2章9節)
クリスチャンが王であるということは、霊的に、この世のすべてのことがクリスチャンにとって益となるということです。これは、敵に囲まれても支配されず、抑圧されても、苦しめられても霊的な強い力を持ち、弱さの中にあってキリストの力が完全に現れるということです。
「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ人への手紙8章28節)「しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。」(コリント人への手紙 第二 12章9節)
人生の試練や苦難、罪を信仰の目で見ていくとき、クリスチャンはより信仰深い人に変えられます。
クリスチャンが祭司であるということは、神様の前に立って他の方の幸せのために祈るということです。クリスチャンにはこの特権が与えられています。神様は祭司であるクリスチャンの祈りを聞いてくださいます。クリスチャンは、自分の利益のためでは無く、神の栄えのために祈りを用いるのです。
「また主を恐れる者の願いをかなえ彼らの叫びを聞いて救われます。」(詩篇 145篇19節)
神がクリスチャンの行うすべてのことを受け入れ、聞き入れて下さるのは、信仰がクリスチャンを神の前に義とするからです。もしここに 1 つでも自分の行いを入れるなら、イエス様の十字架は不完全だということと同じであり、神の御子を侮辱することです。
キリストを救い主として信じ、洗礼を受けたすべての信徒は祭司です。ここに教会に牧師が必要な理由があります。祭司であっても、公に教えることは誰もができるわけではありません。教会の秩序を保つため、また偽りの教えが入らないようにするため、信徒は教えるという役割を誰かに委ねます。それが牧師です。信徒は、牧師を任命し公の説教と聖礼典を委ねます。牧師は福音の管理をする人です。
すべての人にとって大切なことは、キリストと出会うことです。キリストはすべての人のために生まれ、死んで復活されました。すべての人は礼拝で語られるみことばを通してキリストと出会います。礼拝で恵まれ、喜びに満たされます。ぜひ、日曜日の礼拝に来てください。そして、神様の恵みを受け取ってください。
説教者:加藤 正伸 長老