2024年10月27日
「宗教改革はルターの個人的な福音体験から始まった」
新約聖書:ローマ人への手紙1章17節
1、宗教改革はルターの個人的な福音体験から
ルターは、33歳の時に個人的な魂の救いの経験をしました。ローマ人への手紙1章17節との出会いです。彼は神との平和や罪の赦しの確信を長い間求めてきたのですが、それらが与えられ、彼の心の最も深い霊的な必要が満たされました。暗闇と恐れの中にあった彼の心は、いのちの世界に変わりました。イエス・キリストにあって新しく創られた人になったのです。
それまでのルターは、「神の義」とは神の怒りであり、神が罪人をさばくことだと教えられ、理解してきました。しかし人間を怒り、さばき、罪に定める神をどうして愛することができるでしょうか。
しかし1516年、その時が来ます。彼が詩篇の講義の準備をしているとき、ローマ人への手紙1章17節のみことばから離れられなくなります。「義人は信仰によって生きる。」(信仰によって義と認められる人は最後まで信仰によって生きる。)キリストを信じる信仰がいのちをもたらすこと、神の義とは人を裁くことではなく罪人を赦すことを、聖霊なる神様が彼に気づかせたのです。このとき彼は、目の前に天国が開かれたように感じました。この時から彼には、聖書の語ることがよくわかるようになります。私たちの義とは、罪人を赦してくださるキリストのことです。
このルターの個人的な救いの経験が、当時のキリスト教会だけでなくヨーロッパ全土を揺るがした宗教改革の、発端であり根幹です。そして、私たちも、このときのルターと同じようにみことばから福音体験が与えられるときがあるのです。私たちルーテル同胞教会は、ルターの教えに固く立ち、信徒とキリストとの個人的な関係を重視しています。
2、キリストの救い
私たち人間は、罪と死と悪魔の支配の中にいます。罪ゆえに、火で焼かれても水に溺れて死んでもおかしくない。なぜ神は、私たちをそこから救い出すために、愛する御子キリストをこの世に送ってくださったのか。なぜキリストは罪人である私たちの義となってくださったのか。
それは、キリストが私たちの身代わりとなるためです。キリストの死は、私たちの身代わりの死です。ヘブル人への手紙10章5節から7節をぜひお読みください。このことを信じるなら、人は罪と死と悪魔の支配から救われるのです。
3、救いの確信を持つために、持ち続けるために
(1)皆さんは、「自分は本当に救われてるんだろうか」と思う事はないでしょうか?実はこのような疑いは、義に対する飢え渇きであり、聖霊が臨在している証拠です。
ルターの私たちに対する忠告はこうです。「この点についてよく理解するためには、次のことを考えると良い。すなわち、私の心の中には、信仰とか愛と呼ばれるものは何一つなく、ただキリストご自身をそこにおいて「ここに私の義がある」と言い聞かせることである。」自分だけを見つめる習慣を離れ、自分の外に、自分を超越して存在するキリストの贖いの功績を求めることです。
(2)「洗礼を受けても罪を犯してしまう。全然成長していないんじゃないか」、そう思う方はいませんか? これは「信仰義認」と「聖化」を混同しているからです。私たちは、キリストを信じた瞬間に義とされました。キリストの義の衣を着させて頂いたのです。洗礼を受けたときに神の子として頂き、聖霊を与えられました。これが信仰義認です。
しかし聖霊による聖化は生涯続きます。人間には罪の性質があり、罪の誘惑に陥る危険がいつもあります。「悪魔は、吠えたける獅子のように、食い尽くすべきものを探し求めながら、歩きまわっている。」(Tペテロ5: 8) だから私たちには、いつも福音の言葉が語られ、罪の赦しが宣ベ伝えられる必要があるのです。
(3)どうしたら救いの確信を持ち続けることができるだろうか?
1つには、ただただキリストを見上げていくことです。2つ目は、いつも神様のみことばの約束を信じることです。自分の熱心さや信念の強さ、あるいは絶望感や疑いは関係がありません。3つ目は礼拝を大切にすることです。聖霊は、人に信仰を起こす手段として福音の説教と聖礼典を与えてくださいました。礼拝で罪の赦しを受け取り、信仰を新たにさせて頂くのです。
すべての信徒が信仰の確信をしっかり持った教会を、ご一緒に立てあげていきましょう。
<ローマ人への手紙 1章17節>
なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。