2024年6月9日
「私たちが第一に求めるべきことは」
旧約聖書:ミカ書 2章12節〜13節
T.表題(1:1)
まず、1章1節で預言者ミカについて紹介されています。
ミカとは「誰が主のようであるのか」という意味の名前です。
そして、ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代にとありますので、預言者としてはイザヤやアモスと同時代の預言者となります。
また、「モレシェテ人」の意味は、モレシェテ・ガテの出身という意味です。ユダヤ人では無いということではありません。モレシェテ・ガテは、エルサレムの南西30から40キロくらいのところにあり、ペリシテと国境を接する低い丘陵地帯にある地域です。
ミカは、ヒゼキヤ王の宗教改革に影響を与えた預言者のひとりでもあります。
U.民への告発とその理由(1:2-2:11)
さて、ミカは、南ユダ王国の預言者でしたが、南ユダ王国だけではなく、北イスラエル王国についても預言しています。
a)サマリヤの荒廃とエルサレムへの警告(1:2-9)
まず、ミカは北イスラエル王国の首都であったサマリヤの荒廃と南ユダ王国の首都エルサレムへの警告を預言しています。
1)神の法廷(2-3)
最初に、2節3節で、神の法廷がイメージされています。裁判官である神さまは、世界を証人に招いて、被告人であるイスラエルの民を裁こうとしておられます。
神さまは、歴史の出来事の中にご自身を啓示されます。つまり、神さまは北イスラエル王国の首都サマリヤの滅びの中にご自身を現されました。
2)アッシリヤ捕囚もしくは北イスラエル王国の滅亡(4)
北イスラエル王国はアッシリヤによって滅ぼされました。北イスラエル王国の人々はアッシリヤへ捕囚として連れて行かれました。それが、神さまの裁きの結果です。4節は、そのアッシリヤ捕囚の様子を描いています。
3)罪の内容(5)
では、なぜ、神の民は裁かれたのでしょうか。その理由は、罪にあります。そして、罪の内容は、偶像礼拝です。5節に「ヤコブのそむきの罪は何か。サマリヤではないか。」と書かれているのは、北イスラエル王国がサマリヤで偶像礼拝をしていたという意味です。
南ユダ王国にはまだ信仰が残っていましたが、善い王さまが治めていたときでも、完全に偶像礼拝を排除することは出来ませんでしたし、また、主なる神様を礼拝するときも、その方法が間違っていました。5節で続けて「ユダの高き所は何か。エルサレムではないか。」と書かれているのがそれです。モーセの律法では、成年男子は年に3度エルサレムに上り(申命記16:16-17)、そこにある神殿で動物の生け贄を献げるようにと命じていましたが、南ユダ王国の人々は、あちこちに自分勝手に祭壇を築いて、そこでいけにえを献げていました。それが「ユダの高き所」と呼ばれる祭壇です。
もちろん、この年に3度エルサレムに上らなければならないという律法は、イエス様によって成就されていますので、今現在の私たちはこの律法からは解放されています。(マタイの福音書18章19節20節)。ふたりでも、3人でも、私たちが集まるとき、そこにイエス様も一緒にいてくださいます。だから、今は、エルサレムだけが礼拝する場所ではなく、私たちはどこででも、いつでも、イエス様を礼拝することができます。
4)裁きの結果:北イスラエル王国(6-7)
さて、裁きの結果はどうなったでしょうか。まず、北イスラエル王国への裁きの結果が書かれています。山の上に建てられた北イスラエル王国の首都サマリヤは破壊されました。
サマリヤは、北イスラエル王国の中で、偶像礼拝の中心地になっていました。そして、その偶像礼拝のおかげで経済的には非常に潤っていました。しかし、それが、偶像礼拝の、しかも、不品行を伴うようなことをして得た利益であるなら、神さまは、それらのことをお許しになることはありません。アッシリヤはサマリヤを物理的に破壊しただけではなく、サマリヤが得ていた利益も根こそぎにしていきました。北イスラエル王国が背信で得たものは失われることが預言され、他の偶像崇拝者であるアッシリヤのものになりました。
5)裁きの結果:南ユダ王国(8-9)
そして、もちろん、南ユダ王国も裁かれました。アッシリヤは北イスラエル王国を滅ぼした後、南ユダ王国にも攻め入ってきました。北イスラエル王国の滅亡に続いて、南ユダ王国も今まさに滅ぼされようとしています。
実際には、南ユダ王国を滅ぼしたのはアッシリヤではありません。南ユダ王国には神さまに立ち返った善い王さまがいたので、その分、北イスラエル王国よりは少し長らえました。しかし、主なる神様への間違った礼拝方法や偶像礼拝を完全に止めることが出来ず、アッシリヤが滅びた後、バビロンに滅ぼされます。
6)まとめ
神さまはご自身の民を愛しておられました。ですから、最初から滅ぼしたいと思って滅ぼしたわけではありません。だからこそ、民が悔い改めることが出来るように何人もの預言者を遣わされました。しかし、民は、預言者たちの悔い改めのメッセージに耳を傾けないばかりか、預言者たちを迫害しました。
民が、預言者たちのメッセージを聞いて悔い改めることをしないのなら、民を救う方法がありません。9節に「まことに、その打ち傷はいやしがたく、」と書かれているのは、裁きを与えるしか解決方法が無いほど、罪という傷が深いということです。
そして、目に見える偶像だけが偶像ではありません。もし、私たちが神さま以外のものを自分にとっての第一とするなら、それも偶像礼拝なんだということを覚えておいていただきたいと思います。私たちは、もし、罪を犯したとしても、悔い改めの可能性が残されているうちに、神さまに立ち返りたいと思います。
b)ユダの荒廃とエルサレムへの警告(1:10-16)
1章10節から16節でミカは、南ユダ王国の町の名前をあげて神さまの裁きが及ぶことを悲しんでいます。ミカは、北イスラエル王国と南ユダ王国の滅亡を預言しましたが、その預言が成就することを喜んでいたわけではありません。できれば、人々が悔い改めて、神さまに赦され、滅亡が回避されることを望んでいました。
北イスラエル王国がアッシリヤに、南ユダ王国がバビロンに滅ぼされたことは、歴史的な事実ですが、第二列王記にも記録されています。是非、お読みいただいてミカの預言の成就をご確認いただきたいと思います。
北イスラエル王国の滅亡 第二列王記 18章9節〜12節
アッシリヤに攻められて南ユダ王国の町々が崩壊した記述 第二列王記 18章13節〜16節
c)罪と罰(2:1-5)
1)貪欲の罪(1-2)
まず1節2節で、ミカは、民の罪の本質が貪欲にあることを指摘します。
率先して罪を犯しているのは指導者たちでした。指導者たちには弱者を助ける責任がありますが、彼らは責任を果たすどころか、逆に弱者を搾取していました。権力は、腐敗しやすいのです。
しかも、彼らはうっかり罪を犯してしまうのではありません。寝床の上でしっかり計画を練り、朝になるとそれを実行するというのです。
2)罪に対する裁き(3-5)
そして、3節から5節に神さまの裁きの内容が書かれています。
北イスラエル王国の人々も、南ユダ王国の人々も、ミカが「神さまはあなたがたにわざわいを下そうと考えておられますよ」と言ったときに、その言葉を信じて悔い改めれば、きっと、神さまはイスラエル人にわざわいを下すことは無かったと思います。
しかし、イスラエルの人々は悔い改めることをしませんでした。
そして、4節にあるように「私たちはすっかり荒らされてしまい、私の民の割り当て地は取り替えられてしまった。どうしてそれは私から移され、私たちの畑は裏切る者に分け与えられるのか。」と人々は嘆くことになるのです。指導者たちが弱者たちからかすめ取った土地や財産は、今度は、北イスラエル王国はアッシリヤによって、南ユダ王国はバビロンによって、奪われる結果になりました。
私たちは、もし、罪を悔い改めなければ、裁きがあることを覚えておかなければならないと思います。私たちが生きて生活していくためには、お金や物は必要な物です。そういうものを正当な方法で手に入れることまで、悪いことだと言われているわけではありません。むしろ、聖書では勤勉であることが勧められています。しかし、お金や物を一番に求めてはいけないとも言われています。(マタイの福音書 6章33節) 私たちがなるべく罪から離れているためには、マタイの福音書が言っているように、私たちは神の国とその義を第一に求めていかなければならないのだと思います。
もし、ミカの時代のイスラエルの人々が、預言者たちの教えを信じて、神の国とその義を第一に求める生活をしていたら、その身に滅びを招くことは無かったのかもしれません。しかし、残念ながら彼らは預言者たちの忠告に聞き従わず、イスラエルは滅びることになってしまいました。
d)預言の真偽(2:6-11)
そして、イスラエル人たちは、ミカの預言に聞き従わないばかりか、ミカを圧迫し、預言することを止めさせようとしました。
それが、2章6節から11節に書かれています。
ミカの預言は率直で、イスラエルの人々には耳の痛いものでした。
だから、聞き心地の良い預言だけを話す偽予言者の預言を引き合いに出して、ミカに預言を止めさせようと攻撃してきましたが、ミカにさらに反論される結果となりました。
V. 解放の約束(2:12-13)
そして、ここまでしても、北イスラエル王国と南ユダ王国は、結局悔い改めることは無く、神さまに裁かれました。
しかし、神さまは、ご自身の民を完全に見捨ててしまったわけではありませんでした。
2章の最後、12節と13節で希望があることも預言されています。
イスラエルの罪は神さまによって裁かれ、アッシリヤは裁きの道具として用いられました。民は散らされ、悲惨を経験することになりました。しかし、12節で「わたしはあなたをことごとく必ず集める。わたしはイスラエルの残りの者を必ず集める。」と預言されました。
「残りの者」とは、信仰を失わずに残ったイスラエルの人々のことです。主ご自身の働きによって、イスラエルはもう一度主のもとに集められます。
アッシリヤやバビロンの捕囚からの解放をもたらすのは、神さまご自身です。
13節の1行目2行目に「打ち破る者は、彼らの先頭に立って上って行き、」6行目に「主が彼らの真先に進まれる。」と書かれています。
神さまは「救い主」として、民を敵から解放し、先頭に立って行かれます。神さまは、私たちを罪から救った後、「では、あとはどうぞご自由に」と言われるような方ではありません。ちゃんと責任を持って、いつもいつも私たちを導いて下さっています。
そして、12節13節の預言は、直接的にはアッシリヤ捕囚やバビロン捕囚からの解放を意味していますが、実は、終末的な預言も含んでいます。
12節に「わたしは彼らを、おりの中の羊のように、牧場の中の群れのように一つに集める。」と書かれています。
聖書では、神さまを信じる人たちの比喩として「羊」が使われることがよくあります。
ヨハネの福音書10章4節には「彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼についていきます。」と書いてあります。イエス様の、羊飼いと羊のたとえ話ですが、ここで「彼」と言われているのは救い主であり「メシヤ」であり「キリスト」である方です。
さらに、ヨハネの福音書10章を続けて読んでいくと、9節で「私は門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」
ヨハネの福音書10章14節で「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。」と言われています。
神さまを信じる残りのイスラエル人たちは牧者が羊を集めるように集められ、イエス様に従っていくようになります。
12節の「わたしは彼らを、おりの中の羊のように、牧場の中の群れのように一つに集める。」という聖書の言葉は短い言葉ですが、その短い言葉の中に、イスラエル人たちの捕囚からの解放、メシヤとしてのイエス様が来られること、そして終末にイスラエル人たちの間でリバイバルが起こること、と、何重にも預言が重ねられているのです。
そこに、人間の思惑は全く入る余地がありません。解放、救いは徹底して、神さまの恵みの働きなのです。
W.さいごに
ミカ書1章2章の中で、私たちにとって一番大切なことは、やはり「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」と言うことです。
南北に分裂したイスラエル人たちは、それが出来なかったから、偶像礼拝をするようになり、貪欲の罪に陥り、ついには神さまの裁きにあい、近隣の大国に滅ぼされ、イスラエルの地から連れ去られることになってしまいました。もし、私たちが祈りながら聖書を読んでいるときに、「悔い改めなさい」という導きがあったなら、私たちは素直にそれを受け入れ、悔い改めたいと思います。
さいごに、第一ヨハネ1章9節をぜひお読みください。
説教者:菊池 由美子 姉
<ミカ書 2章12〜13節>
12 ヤコブよ。わたしはあなたをことごとく必ず集める。わたしはイスラエルの残りの者を必ず集める。わたしは彼らを、おりの中の羊のように、牧場の中の群れのように一つに集める。こうして人々のざわめきが起ころう。
13 打ち破る者は、彼らの先頭に立って上って行き、彼らは門を打ち破って進んで行き、そこを出て行く。彼らの王は彼らの前を進み、主が彼らの真っ先に進まれる。