2024年6月30日
「クリスチャンの人間関係の土台」(要約)
新約聖書:ローマ人への手紙6章1節から14節
1、目的
第一戒から第三戒は律法の第一面といいます。私たちと神様との関係についての戒めです。ここには私たちが、心と言葉と行いで神様を愛するようにということが教えられています。二面の第四戒から第十戒は、人間関係についての教え。教会員であっても、家庭、教会、社会において、人間関係に悩まない人はいないのではないでしょうか。神様を信じているのに、どうして悩みがなくならないのでしょう?
2、人間関係の現実
芥川龍之介の小説に「かっぱ」があります。カッパの世界で住み始めた主人公は、ある日、チャックと一緒にカッパのお産に立ち会います。カッパの父親がお母さんカッパのお腹に口をつけて、「お前はこの世界を生まれてくるかどうか、よく考えた上で返事をしろ。」と大きな声で尋ねます。するとお腹の中の子は小声で返事をします。「生まれてくると苦労が多いので、僕は生まれたくはありません。」現代なら、「いじめもあるしパワハラもある。生まれてくると苦労が多いので、僕は生まれたくはありません。」ということになるかもしれません。
3、聖書と罪の問題
妬まれる、陰口を言われる、いじめられる、という経験は、どなたでも持っておられるでしょう。最悪なのは物のように扱われるとき。上司や仲間、時には家族からパワハラやいじめ、虐待を受けて、奴隷のように扱われる場合です。心に大きな傷を負い、なかなか消えません。こんな世界に生きていたくない。そう思って自殺をする人もいるわけです。
妬み、陰口、いじめ、人を物のように扱う、これらはみな罪です。どうして罪があるのか。もともと神様は、人間が幸せに生きるためにこの世界を創られました。しかし人は蛇(サタン)にそそのかされて罪を犯します。神様のようになりたいという欲望から神様の命令に背いたのです。それですべての人は原罪を持って生まれてくるのです。
しかし神様は、罪人である私たちを救うため、救い主キリストをこの世界に送ってくださいました。イエス様は自ら十字架につかれ、私たちの罪をその身に負ってくださいました。私に代わって律法の要求を満たし、私を贖って下さいました。そして復活により私たちに聖霊を与え、私たちが新しいいのちを生きるようにしてくださいました。
4、クリスチャンの人間関係の土台
クリスチャンの人間関係の土台は洗礼です。洗礼は、単なる象徴ではありません。
今日の聖書箇所にあるように、洗礼によって私の古い人は十字架につけられました。聖霊を与えられた私は、いのちにあって新しい歩みを始めました。だから私たちのうちには新しい人があります。しかし古い人もある。古い人はキリストの十字架に繋ぎ合わされ死んだのですが、まだ活動を止めず、私たちを罪に引き込もうとする。
こうして私たちのうちに、神様の御心を叶えたい自分と神様から顔を背けたい自分。礼拝に行きたい自分と行きたくない自分。自分に意地悪をした人を許したい自分とその意地悪を許せない自分がいます。
クリスチャンはこの2つの自分に葛藤します。このとき聖霊は私たちに罪を示し、悔い改めに導いて下さいます。悔い改めは、自分の罪を痛み、悲しみ、イエス様にすがるということです。
もう神様の側で私を義と認めてくださったのだから、十戒は自分たちに関係ないんだ、十戒を守る必要はないんだとか、クリスチャンだから罪を犯しても許してもらえる、罪を犯すのはしょうがないよね、というのは間違いです。私たちはどこまでも救われた罪人です。何度でも罪を犯しますが、その私に、イエス様は、わたしのもとに戻ってきなさい。わたしが赦してあげます、そう言われます。そして聖霊が私たちの内なる人を変えてくださいます。ですから私たちは、傷つけられて苦しんでいる人に、「恨みや憎しみを持ち続けるのではなく、許せる日が来ます、そのために祈りましょう」と祈るのです。
5、自分を愛するように隣人を愛しなさい
この信仰を土台に、私たちは隣人愛を行います。マタイの福音書7章12節で、「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」隣人とは出会った人すべて。キリストとともに歩むとき、神様は、家庭、教会、社会のすべてで、あなたの人間関係を祝福してくださいます。
「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです。」このイエス様に目を向け、今週も歩んでいきましょう。
説教者:加藤 正伸 長老
<ローマ人への手紙 6章1〜14節>
1 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
12 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
14 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。