2024年5月12日
「サムエルの母ハンナの祈り」 母の日
旧約聖書:サムエル記第一 2章1節〜11節
今日は母の日なので、サムエルの母ハンナを取り上げたいと思います。
T.ハンナの背景(サムエル記第一 1:1〜
ハンナを理解するには、まず、サムエルが誰なのかを知る必要があると思います。
a)サムエルとは誰か
まず、出エジプトという出来事があって、この時、モーセがリーダーとしてイスラエル人を導きました。その後、ヨシュアがモーセの後継者となりイスラエルを治めました。ヨシュアが亡くなると、士師の時代となり、基本は神さまが直接イスラエルを治めていましたが、必要に応じて士師が立てられ、イスラエルを治めました。サムエルは、士師の時代の最後の士師です。
モーセやヨシュアや士師たちはイスラエルを治めましたが、王さまではありませんでした。
b)ハンナと家族(Tサムエル記 1:1〜2)
さて、その、最後の士師であるサムエルの母となったのがハンナです。サムエルの父であり、ハンナの夫であった人はエルカナと言います。エルカナには二人の妻があり、一人はハンナで、エルカナはハンナを非常に愛していました。しかし、ハンナには子どもがいませんでした。二人目の妻はペニンナと言い、ペニンナには子どもがいました。
紀元前の話なので、妻が子どもを産むことは大切なことで、子どもがいないというのは大問題でした。子どもがいないのに、エルカナに非常に愛されていると言うことで、ハンナはペニンナに嫉妬され、いじわるをされていました。エルカナからの愛情はあったものの、子どもを産むという妻としての役目が果たせない上に、もう一人の妻であるペニンナには意地悪をされる日々で、ハンナは非常に辛い毎日を送っていました。
しかし、実は、ハンナに子どもができないようにしていたのは、神さまでした。サムエルの誕生について、神さまのご計画があったので、それまで子どもが生まれないように、神さまがされていました。しかし、それを知らないハンナは、子どもが出来ないことで気をもみ、さらにはペニンナの意地悪にも耐えなければいけない状態でした。
c)シロでのできごと(Tサムエル記 1:3〜28)
エルカナの家族は、毎年シロで行われる例祭に参加していました。
シロは、エルサレムより北側にあって、エルサレムとサマリヤの中間くらいの場所にあります。エルサレムがイスラエルの中心地になる前、シロが士師時代の宗教的中心地でした。
エルカナの家族は、シロで祭りの食事をしていましたが、ペニンナの意地悪のためにハンナは泣いて食事が出来ず、食事会が終わるとハンナは主の宮へ行き、子どもが与えられるように神さまに祈りました。
第一サムエル記 1章10〜11節
この時、ハンナは祭司エリと出会います。エリは、サムエルが乳離れした後預けられ、サムエルの師となり、サムエルを育てた祭司です。
この、ハンナとエリの出会いの後、エルカナとハンナの間にサムエルが与えられました。
今日の聖書箇所は、「ハンナの賛歌」と呼ばれる箇所で、ハンナがエリと再会したときに、サムエルの誕生についてハンナは神さまをたたえて祈りました。
U.ハンナの賛歌(Tサムエル記2:1〜11)
ハンナの賛歌は、これを歌ったハンナの霊性がいかに豊かなものであったかを物語っています。
a)主を誇る(1節)
(1)ハンナは、息子が誕生したことを誇るのではなく、それを可能にしてくださった主ご自身を誇っています。与えられた賜物以上に、その賜物を与えてくださった方を喜んでいるのです。これこそ、真の信仰者の特質です。
(2)次に、「私の角は主によって高く上がります」と歌っています。「角」とは、力の象徴です。つまり、ハンナは主によって力が与えられていることを誇っているのです。
(3)さらに、ハンナは主からの「救い」を喜んでいます。ここで言う「救い」には、ハンナに子どもが与えられない状態から解放されたことも含まれていると考えて良いと思いますが、私たちはイエス様による十字架の救いを知っていますので、私たちがここを読むときには、もっと広い意味で私たちの「救い」を指していると思って読んで良いと思います。
私たちはどこから、何によって力を得ているでしょうか。
詩篇121編1〜4節
イザヤ書12章2節
私たちは、主なる神さまから力を得ています。イエス様の十字架によって罪赦されて、信じることによって救われ、イエス様の復活によって永遠のいのちが与えられています。ですから、私たちもハンナと同じように、まずは、主なる神様を誇りたいと思います。
b)主は比類無きお方(2節)
(1)まず、主のように聖なる方はいません。
(2)次に、主に並ぶことのできる神はいません。
(3)さらに、主のように力強い神はいません。
「岩」とは、力強い方という意味です。詩篇18編2節で「主はわが巌(いわお)、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。」と歌われているとおりです。今、私たちの信じている神さまが、比類なきお方であり、圧倒的な力と栄光に満ちたお方であることを思い出しましょう。
c)警告の言葉(3節)
ハンナが3節のように語ったとき、ペニンナの傲慢を思い浮かべていたんじゃないかと思います。しかし、これは、ペニンナだけへの警告では無く、人は、主の前で高ぶったり、横柄な言葉を口から出したりしてはいけないのです。なぜなら、主は全能の神であり、私たちの心の内まですべてをご存知だからです。
人の行為が良いか悪いかの判断は、全知全能の神さまがなさることです。
ハンナは、裁きは主がなさることだと知って、本当は、サムエルが生まれたことにより、ペニンナに反撃したいという思いがあったかもしれませんが、そこはぐっとこらえて、自分でペニンナに復讐するようなことはせず、ペニンナへの裁きは神さまにお任せしました。ここにも、ハンナの信仰者としての模範が示されています。
d)主がもたらす人生の逆転劇(4〜8節前半)
(1)一つ目は、力の逆転。勇士が低くされ、弱いものが力あるものとされるようになると語っています。
(2)二つ目は、食料の逆転。パンに飽いていた者がパンのために雇われるようになり、餓えていた者が満ち足りるようになると語っています。
(3)三つ目は、出産の逆転。不妊の女が7人の子を産み、多産の女がしおれるようになると語っています。
7は完全数であり、7人の子とは実際に7人の子どもを産むことでは無く、「多くの子」を意味する言葉として用いられています。ちなみに、ハンナ自身はサムエルを含めて6人の子を産むようになります。
(4)四つ目は、生命と死の逆転。主は生ける者の命も、死んだ者の命も支配しておられると語っています。
(5)五つ目は、貧富の逆転。主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人を、あくたから引き上げて高貴な者とともに座らせると語っています。
主はまさに、私たちの祈りに答えてこのような逆転劇を生み出すことのできるお方です。
e)主に油注がれた者ということば(8節後半〜10節)
次にハンナは8節後半から10節で、神さまがどのようなお方かをもう一度語り、お祈りを終わりにしています。この世界は、神さまによって作られて、神さまを信じる人々を、神さまは守られます。ハンナは、最後にまた神さまの素晴らしさを祈っています。
そして、10節に「ご自分の王に力を授け、主に油そそがれた者の角を高く上げられます。」とありますが、これは、「王」が「油そそがれた者」であることを示した初めての箇所です。これ以前にも、人に油を注ぐという行為はありましたが、それは、王としてではありませんでした。
ハンナは、自分の息子であるサムエルが、こののち、サウルやダビデに油を注いで王に任命する人物になると知っていたわけでは無いと思います。しかし、知らずとも、ハンナは息子サムエルの役割を暗示するような言葉で自分の祈りを終わりにしています。
また、「主に油注がれた者」は、メシアという意味でもあります。
イエス様がダビデの子と呼ばれることもあることを考えると、ハンナの賛歌の最後である、第一サムエル記2章10節は、メシアであるイエス様も暗示しているのかもしれません。
f)帰宅(11節)
ハンナの賛歌が終わって、11節を見ると、幼子サムエルを祭司エリに渡して、エルカナとハンナは帰路に着きました。祭司エリが働いていた会見の天幕には、そこで仕える女たちも多数いましたので、サムエルは、そのような女性たちによって養育されたのだと思われます。ハンナは母親としての情を捨てて、幼子サムエルの生涯を主の御手に委ねました。信仰者の決断がそこにあります。
V. 結論:私たちの模範であるハンナ
そのようなハンナを、私たちは信仰者の模範とすることができると思います。
a)主の愛の中に留まる
ハンナは、結婚しても子どもが与えられず、二人目の妻であるペニンナには意地悪をされる日々でした。辛い結婚生活に涙することもありました。しかし、そんな辛い中にありながらも、ハンナは主の愛の中に留まり続けました。決して信仰を捨てることはしませんでした。
イエスさまは、ヨハネの福音書15章9節で「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」と言われています。
その通りに、私たちも主の愛の中に留まり続けたいと思います。
b)主に助けを求める
そして、ハンナは主に助けを求めました。
私たちも、困ったときは同じように主に助けを求めたいと思います。
神さまご自身が、マタイの福音書7章7節8節で、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」とおっしゃられています。私たちは、神さまになんでも頼っていいのです。
c)主の時があることを知る
さらに、ハンナは、主の時が満ちるのを待ちました。主に信頼し続けるなら、必ず道が開けます。私たちは、自分の願いを叶えるために、何とか自分で頑張ろうとしてしまうことがあります。時には、それが必要なこともありますが、神さまの時と方法に身を委ねることも大切です。
ローマ人への手紙 8章28節
d)主を賛美する
そして、サムエルが与えられたとき、ハンナは主を賛美しました。
日々の祈りの中で神さまを賛美して、神さまがどんなに素晴らしい方なのかを自分の中で新たにしていくことは素晴らしいことだと思います。また、ハンナの賛歌は、イエス様の母マリヤに受け継がれています。ぜひ、マリヤの賛歌もお読みください。
マリヤの賛歌 ルカの福音書 1章46節〜55節
説教者:菊池 由美子 姉
<サムエル記 第一 2章1〜11節>
1 ハンナは祈って言った。「私の心は主を誇り、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私はあなたの救いを喜ぶからです。
2 主のように聖なる方はありません。あなたに並ぶ者はないからです。私たちの神のような岩はありません。
3 高ぶって、多くを語ってはなりません。横柄なことばを口から出してはなりません。まことに主は、すべてを知る神。そのみわざは確かです。
4 勇士の弓が砕かれ、弱い者が力を帯び、
5 食べ飽いた者がパンのために雇われ、飢えていた者が働きをやめ、不妊の女が七人の子を産み、多くの子を持つ女が、しおれてしまいます。
6 主は殺し、また生かし、よみに下し、また上げる。
7 主は、貧しくし、また富ませ、低くし、また高くするのです。
8 主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人を、あくたから引き上げ、高貴な者とともに、すわらせ、彼らに栄光の位を継がせます。まことに、地の柱は主のもの、その上に主は世界を据えられました。
9 主は聖徒たちの足を守られます。悪者どもは、やみの中に滅びうせます。まことに人は、おのれの力によっては勝てません。
10 主は、はむかう者を打ち砕き、その者に、天から雷鳴を響かせられます。主は地の果て果てまでさばき、ご自分の王に力を授け、主に油そそがれた者の角を高く上げられます。」
11 その後、エルカナはラマの自分の家に帰った。幼子は、祭司エリのもとで主に仕えていた。