2024年4月14日
「福音は、私たちのところまで届いてきた」
新約聖書:マタイの福音書28章16〜20節
イースターの後なので、今日は、イエス様が復活後に弟子たちにあらわれたお話をしたいと思います。
T.大宣教命令の背景(マタイ28:16〜17)
まず、聖書は、復活のイエス様が弟子たちなどにあらわれたことを、10回記録しています。日曜日の復活当日に5回、それ以降の40日間に5回です。今日は、そのうちの8回目のあらわれについてお話ししたいと思います。
まず、10回のあらわれを、簡単にご紹介しておきたいと思います。
1回目 マグダラのマリヤに(マルコの福音書、ヨハネの福音書)
2回目 女たちに(マタイの福音書)
3回目 エマオ途上の2人の弟子たちに(ルカの福音書)
4回目 ペテロに(ルカの福音書)
5回目 トマスを除いた使徒たちに(ヨハネの福音書 20章)
ここまでが、復活当日です。次に、それ以降の40日間のあらわれですが、
6回目 トマスを含めた使徒たちに(ヨハネの福音書 20章)
7回目 ガリラヤ湖畔で7人の弟子たちに(ヨハネの福音書 21章)
8回目 500人以上の信者たちに (マタイの福音書)
9回目 イエス様の弟のヤコブに (コリント人への手紙第一)
10回目 オリーブ山で使徒たちに (使徒の働き)
今日は、8回目の500人以上の信者たちへのあらわれについてお話ししたいと思います。
a)マタイの福音書 28:16
まず、マタイの福音書28章16節を見ていただきたいと思います。
ここに、11人の弟子たちがガリラヤに行って、イエス様の指示された山に登ったことが書かれています。この山がどこなのかは書かれていないので分かりません。また、ガリラヤ地方の信者たちは、弟子たちがガリラヤ地方へ来ることを知って、事前に集まっていたものと思われます。マタイの福音書では、11人の弟子たちの動きだけが書かれていますが、弟子たちがイエス様の指示された山に登ったとき、実は、集まっていたガリラヤ地方の信者たちも一緒だったのではないかと思われます。
というのも、コリント人への手紙第一 15章6節に「その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。」と書かれています。これが、マタイの福音書に書かれているガリラヤ地方の山で11人の弟子たちにイエス様があらわれた出来事なのではないかと思われます。ここに、11人の弟子たちだけでなく、500人以上の信者に同時にあらわれたと書かれているので、マタイの福音書では11人の弟子たち以外の信者たちについては言及されていませんが、実は、他の信者たちもいた可能性があります。
b)マタイの福音書 28:17
マタイの福音書28章17節を見ると、イエス様にお会いした弟子たちは、イエス様を礼拝しました。イエス様の復活後、弟子たちや信者たちは、イエス様を神さまとして礼拝するようになりました。今の私たちの礼拝の原点と言えるかもしれません。
イエス様と弟子たちが一緒に宣教活動をしていたときも、弟子たちがイエス様を礼拝することが全く無かったわけでは無いと思います。しかし、その記述は大変少なく、宣教活動時代は、イエス様は人としての性質を大切にされていたのかな、と思わされます。イエス様には、十字架上で私たちの罪の贖いのために死なれるという大切なお働きがありました。その後復活されることが分かっていたとはいえ、父なる神さまに見放されて一度死なれなければならないというのはどれほどの苦しみだったでしょうか。しかも、それは、私たちの罪の贖いのための完全ないけにえとしてなので、神さまとしてでは無く、完全な人間として死ななければなりませんでした。イエス様は、人として生活されていたときも、罪の無い、完全にきよいお方でしたが、十字架での死を見据えて人としての性質を大切にして歩まれたのかな、と思います。
しかし、十字架の死から3日後、復活されたイエス様は、今度は完全な神さまとして弟子たちや信者たちの前にあらわれました。もちろん、人であったときの肉体は持っていましたが、この時は神さまとしての性質を前面に出して、弟子たちの前にあらわれました。ですから、ガリラヤ地方の山で弟子たちと信者たちがイエス様にお会いしたとき、彼らがイエス様を礼拝したことは正しいことでした。
しかし、この時イエス様とお会いした人たちの中には、イエス様の復活を疑う人もいたと書かれています。これは、すでに一度イエス様にお会いしている11人の弟子たちの中に疑う者がいたと考えるのは不自然なので、弟子たちと一緒に山に登った信徒たちの中に疑う者がいたというのが自然だと思います。500人もいたようなので、それだけ多くの人たちになると、何故、山に登るのかよく分かっていなかった人たちもいたのでしょうね。イエス様にお会いできるという心の準備が無かったら、疑いの気持ちが出てきてしまうのも仕方なかったのかもしれません。しかし、疑う人がいた、という記述があることによって、ガリラヤ地方の山で弟子たちがイエス様にお会いして礼拝したという聖書の記述に真実味が増すのだと思います。もちろん、聖書に書かれていることはすべて真実です。
U.大宣教命令の内容(マタイ28:18-20)
さて、次に、マタイの福音書28章18節から20節にはイエス様が弟子たちに語られた言葉が書かれています。ここに書かれていることは、「大宣教命令」と言われています。
a)マタイの福音書 28:18
まず、イエス様は18節でご自身にどのような権威があって、これから語ろうとしているのかを弟子たちに示しました。イエス様が持っておられた権威は、「天の父なる神さまから受けた」「正式な」権威です。
エペソ人への手紙 1章20節〜22節をお読みいただければと思います。
イエス様は、すべての「支配」「権威」「権力」「主権」のさらに上におられるというのです!しかも、今の世だけでなく次に来る世でも、ということは、もう、イエス様の持っている権威は永遠に続くものだと考えても差し支えないでしょう。そして、イエス様はこの権威をもって天と地を支配されます。
コロサイ人への手紙 2章9節〜12節をお読みください。
地上の支配者の権威や権力は、必ず腐敗していくものですが、イエス様の権威に腐敗はありません。また、限界もありません。それは、イエス様のうちに神さまのご性質が満ち満ちているからです。
b)マタイの福音書 28:19-20a
そのような権威を持つイエス様からの私たちへの命令が次の19節と20節前半に書かれています。
これが「大宣教命令」です。
この、「大宣教命令」はあらゆる国の人々が対象です。旧約聖書の時代は、積極的に異邦人に伝道することは推奨されていませんでした。もちろん、旧約聖書にも、ヨナがニネベへ預言を携えて行ったり、イエス様の系図の中にユダヤ人では無い女性が含まれていたり、旧約時代に主なる神さまのことを信じた異邦人はいました。神さまは、彼らを拒絶されることはなさっていません。それでも、まずは、ユダヤ人がしっかりと信じることが求められていました。イエス様も、弟子たちを宣教に遣わすときに、異邦人の地には入らないように指示していました。
しかし、イエス様の十字架と復活によって、ユダヤ教はキリスト教に変わりました!ここからは、ありとあらゆる国の人々へイエス様のことを宣べ伝えるように、ほかならぬイエス様がお命じになりました。
c)マタイの福音書 28:20b
さらに、イエス様は弟子たちと信徒たちに命令を与えるだけではなく、20節後半で約束も与えてくださっています。それは、「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」というものです。私たちがイエス様のことを語るとき、イエス様は私たちと一緒にいて下さるのです!私たちは、ひとりで頑張って、自分の努力でイエス様のことを宣べ伝えるのでは無いのです。いつも、イエス様が私たちとともにいて下さって、一緒に戦ってくださるのです!しかも、それは、「世の終わりまで」なんです。だから、私たちは恐れずにイエス様のことを語りたいと思います!
V. 結論:私たちのところまで届いてきた福音
マタイの福音書28章19節と20節前半の大宣教命令があったから、それまではユダヤ人だけの宗教だったユダヤ教が、イエス様を信じた人たちによってキリスト教になり、私たちの元に届いてきました。私たちは神さまの救いの計画の中に入っていて、大宣教命令によって宣べ伝えられたイエス様の教えが私たちのところまで届いてきて、私たちは信じて救われることができました!
そして、この大宣教命令は私たちのところまで福音が届いてきて、救われて良かった!というだけで終わるものではありません。大宣教命令は信じた私たちへの命令でもあります。イエス様のことを宣べ伝えることは、牧師や伝道者の専売特許ではありません。信じた人には誰にでもできることです!でも、もし、少し難しいと感じるなら、イエス様のことを伝えたい人のことを思い浮かべて、まず、祈るところからはじめてみてください。
説教者:菊池 由美子 姉
<マタイの福音書 28章16〜20節>
16 しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。
18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」