2024年2月18日



「ただの一人も失いませんでした」


新約聖書:ヨハネの福音書18章1節〜12節



今日の箇所は、イエス様が、ご自分から役人や兵士たちに捕まる場面です。イエス様たちは、2階の広間を出て、下町に出る階段を下り、糞の門を出ます。ケデロンの谷に沿って歩き神殿の東門に出て、それから少し上るとゲッセマネの園です。時は金曜日の夜中0時過ぎでした。


1、あらすじ

1節にあるキデロンの谷はイスラエルの歴史上非常に象徴的な場所です。U列王記22?23章にはヨシヤ王が、大祭司ヒルキヤが神殿で見つけた律法の書を読んで、主の前に罪を悔い改め、民とともに、この契約の言葉を実行することを誓います。このときバアルやアシェラのために造られた祭具、アシェラ像を運び出して焼いて灰にした場所がキデロンの谷でした。ユダのアサ王も (1列王記15: 13)、ヒゼキヤ王も (U歴代誌29:16 、30:14)同じように、偶像を焼いて灰にしたり捨てたりしました。私たちにとってキデロンの谷は、自分の心の内にある偶像を焼いて灰にする場所という意味を持つのです。

さてイエス様がゲッセマネの園で祈っていると、そこに、十二弟子の一人ユダが、一隊の兵士と、祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たちを連れ、あかりとたいまつと武器を持ってやってきます。

ユダたちはイエス様を捉えるのに周到な計画を立てます。数百人の兵士と役人たちが遣わされたこと、ゲッセマネの闇の中で捕えようとしたこと、ユダが口づけする人を捕らえるという合図を決めておいたことから伺えます。イエス様が奇跡を行う方であることや、昼間群衆に見られるのを恐れたこともあるでしょう。祭司長やパリサイ人たちがイエス様を捕えて殺そうとした本当の理由は、イエス様をこのまま放っておけば、すべての人がイエス様を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやってきて、自分たちの土地も国民も取り上げてしまう、(ヨハネ11: 48)ということでした。

イエス様は、彼らに捕まるときご自分から出て行き、ご自分がイエスであることを名乗られます。イエス様は、真の神様ですから天の父にお願いして守ってもらうこともできたのです(マタイ26:53)が、聖書のみことばに服従して自分から敵に捕らえられたのでした。

このときイエス様は、捕まえにきた人たちに「わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。」と言います。その理由は9節「あなたがくださった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった」 (ヨハネ6:39)と、イエス様が言われたことばが成就するためでした。

この時シモン・ペテロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司のしもべに切り掛かり、右の耳を切り落としました。イエス様はペテロに、「剣をさやに収めなさい。父がわたしにくださった杯を飲まずにいられるだろうか。」と言います。兵士たちとユダヤ人の下役はイエス様を捕らえて縛り、アンナスのところに連れて行きます。


2、2つのキーワード

(1)「父がわたしに下さったこの杯」

このことばは、イエス様について2つのことを伝えています。

1つは、この時のイエス様のお苦しみは非常なものだったこと。マタイの福音書26章には「イエスは悲しみ悶え始められた。」(37節)「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」(38節)ルカの福音書22章には、「イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血の雫のように地に落ちた」( 44節)と書かれてあります。

神戸改革派神学校の榊原康夫先生は、次のように説明しています。「イエス様は、正真正銘の人間です。死に反発し、死に本能的嫌悪を示す。その上、イエス様は罪を犯したこともなく、生まれながらの汚れも持たぬ義人でしたから、罪への罰としての死、神の怒りとしての死を死ぬはずのない方です。しかし、彼の職責上、その彼に、彼が救おうとする古今東西のすべての罪人に対する神の怒りの杯が、一挙にどっと注がれようとしているのです。死ぬはずもない義人イエスにとって、死ななくてはならないということは、耐えがたい苦しみだったでしょう。」

もう一つは、イエス様は神様の御心に従順であったこと。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26:39)とあるように、「父の命令だから、嫌嫌ながらでも飲むと言うのではなく、本当に心から従順に飲めるようにと戦ったのが、イエス様のゲッセマネの祈りでありました。」(榊原先生)。イエス様は、ヨハネ6章38節にあるように、イエス様を遣わされた方のみこころを行うために天から下ってこられたのでした。

(2) 「あなたがくださった者たちのうち、わたしは1人も失わなかった」

9節の「あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした」というみことばは、今も変わりません。イエス様は、ここにおられる信徒の一人も失うことを望んでいません。皆さんの今の状態がどうであろうとも、イエス様は、皆さんを愛しておられ、皆さんが、与えられた「永遠のいのち」を保つことを望んでおられます。


3、勧め 

(1)イエス様の十字架を見上げる

私たちは、普段仕事や家族の世話、自分のやらなければならない用事や付き合いに忙しく過ごしています。そしていろんなことが気になり悩みます。私の体験ですが、イライラした時身近な人に本心とは違うことを言ってしまう。感情的になり不愉快な思いにさせてしまう。悩みが多いと、そもそも何に悩んでいるいのか、自分の本心はどこにあるのかわからなくなることもある。しかし私たちは、心の真ん中にイエス様の愛を置くことで、不思議と解決されていくと言う経験をします。

私たちの、過去、現在、未来のすべての罪のため、神様の怒りの杯を飲み干してくださった。そのイエス様の十字架を仰ぐことで、私たちは自分が神様から愛されていることがわかるのです。その愛を持って互いに仕え合うのが教会です。

(2) 主の愛にとどまる

神様は、皆さんを愛し、皆さんが、与えられた「永遠のいのち」を保つことができるように、教会に牧師や長老を立てられました。信徒の一人も失うことを望んでいないからです。主はあなたを愛しておられます。主の愛にとどまりましょう。

「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ルカの福音書22章32節



説教者:加藤 正伸 長老




<聖書箇所>

ヨハネの福音書18章1〜12節

1 イエスはこれらのことを話し終えられると、弟子たちとともに、ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。そこに園があって、イエスは弟子たちといっしょに、そこに入られた。

2 ところで、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスがたびたび弟子たちとそこで会合されたからである。

3 そこで、ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。

4 イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、「だれを捜すのか」と彼らに言われた。

5 彼らは、「ナザレ人イエスを」と答えた。イエスは彼らに「それはわたしです」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らといっしょに立っていた。

6 イエスが彼らに、「それはわたしです」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。

7 そこで、イエスがもう一度、「だれを捜すのか」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを」と言った。

8 イエスは答えられた。「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」

9 それは、「あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした」とイエスが言われたことばが実現するためであった。

10 シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。

11 そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」

12 そこで、一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人から送られた役人たちは、イエスを捕らえて縛り、