2023年9月17日



「互いに愛し合いなさい」


新約聖書:ヨハネの福音書13章21〜38節



1 概要


晩餐の席で、イエス様は、ご自分の弟子の1人が裏切ることを明らかにされます。そこにいた弟子たちは、イエス様のこの言葉に驚き、互いに顔を見合わせ、悲しみ、議論を始めます。ダヴィンチの最後の晩餐はまさにその場面です。

イエス様は「わたしがパン切れを浸して与える者だ」と言われ、パン切れを浸してユダに与えられます。ユダはパン切れを受け取るとすぐにその部屋から出て行きました。イエス様が使徒の一人に選び、3年余の間過ごしてきたユダ。部屋から出て行くユダを、イエス様はどんな思いで見ておられたのでしょうか。

ユダが出て行ったあと、まだ部屋がざわつく中で、イエス様は「今こそ、人の子は栄光を受けました。」と言われます。それは、イエス様の死がイエス様の栄光だからです。

またイエス様は「あなた方はわたしを探すでしょう。そして「わたしが行く所へはあなたがたは来ることができない。」と言われます。 これはイエス様が私たちの代わりに地獄にいかれるということです。地獄とは神様に永遠に見捨てられるところ。私たちは本来、罪のためさばきを受けて地獄で滅ばなければなりません。その私に代わって、イエス様が地獄の滅びを経験して下さったということです。

そしてイエス様は、弟子たちに「互いに愛し合いなさい」という新しい戒めを与えられます。また「もしあなた方の互いの間に愛があるなら、それによって、あなた方がわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」と言われました。

これからもイエス様の行く所どこへでもついていきたいと本心で思っていたペテロは、イエス様のことばに不安になって、「どこにおいでになるのですか?」と尋ねます。イエス様は「私の行くところにあなたは今ついてくることができないが、後についてくる。」と答えられます。ペテロが「なぜですか。私はあなたのために命を捨てます。」と言うと、イエス様は「あなたは、鶏が鳴くまでに三度わたしを知らないと言う。」と言われました。



2 ユダの裏切り


なぜユダはイエス様を裏切ったのでしょう。

創世記3章で、アダムとエバがエデンの園にいる時、蛇がエバを誘惑します。 悪魔の誘惑は巧妙です。ユダも同じように囁かれたのかもしれません。「イエスが言われる神の国が来ると、あなたは本当に信じているのですか」「あの方が救い主なら、どうしてあなたはお金に苦労しなければならないのですか」「なぜあなたほど知識のある人はいないのに、なぜイエス様は無学なペテロを優遇するのですか」など。サタンは、私たちが罪に無警戒になるとき近づきます。ユダは預かっていた金入れから「いつも盗んでい」ました(ヨハネ12: 6)。



3 誘惑について


聖書の教える誘惑は、人間の性質とこの世と悪魔がもたらします。

生まれながらの人間は神を信頼しようとはしません。これが原罪です。その根本は、神を神とせず、自分を神にして何でも思い通りにしたいと言う欲望です。そこから様々な欲望が生まれてきます。しかし罪に囚われた人間を救うために、イエス様は十字架の上で死んで下さり、復活されました。そして罪の縄目から私たちを解放して下さいました。例えば、奉仕をするとき人に褒められたいと思うのは、神様ではなく私が崇められたいということなので、自己礼拝という罪です。しかし祈る時それに囚われなくなります。

2つめの世の誘惑とは、自分が社会の底辺の人であることを望まず、人の上に座りたがると言うことです。最底辺の人にはなりたくない。他人と比べ、人を妬み、人と争い、人の上に立とうとする気持ちです。その結果、優越感、劣等感を繰り返します。例えば他の人の昇進を妬む。昇進すると自分の価値まで上がったように思い人を見下す。しかしイエス様はその思いに気づかせて下さり、その思いから自由にして下さいます。

3つめの悪魔の誘惑とは、悪魔が私たちと神との関係を壊すことです。悪魔は、価値観が変われば神との信頼関係も壊れれることを知っています。価値観が変わりイエス様から離れた信徒は少なくありません。ユダがそうです。しかしイエス様は、私たちの祈りと願いを聞いて下さいます。自分の意思ややり方で何とかしようとすると、事態は一層悪化して、いよいよ悪魔に着け入る隙を与えてしまいます。罪と世と悪魔の誘惑は私たちの生活に身近で強いのです。



4  「互いに愛し合いなさい」


ユダが出て行ったあと、イエス様は弟子たちに、「新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい」。また「もしあなた方の互いの間に愛があるなら、それによって、あなた方がわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」と言われました。

古い戒めとは「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」(レビ記19章18節)のことです。イエス様も、マタイ22章で律法の中で大切な第二の戒めだと言われました。この戒めはすべての人に求めておられる戒めです。

これに対して「互いに愛し合いなさい」という戒めは、イエス様の弟子に求めるもので、同じ福音書の15章13節にある「人がその友のために命を捨てると言う、これよりも大きな愛は誰も持っていません」というみことばが基準です。ヨハネ第一の手紙には「私たちは、兄弟のために、命を捨てるべきです」とあります。(1ヨハネ3: 16)

例えば、ヨハネの手紙第一3章17節には、「世の富を持ちながら、兄弟が困ってるのを見ても、哀れみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。…私たちは、言葉や口先だけで愛することをせず、行いと真実を持って愛そうではありませんか。」とあります。これを実践するのが教会なのです。それは兄弟姉妹はキリストにあって一つだからです。

ここから、教会の兄弟姉妹の間でトラブルが起きたときどうすれば良いかが分かります。1つ目は、それぞれで、神より自分の思いや欲望を優先してないか、相手を見下していないか、悪魔が誘惑して、神様への信頼を壊そうとしていないかを振り返り、神の前に祈り、悔い改めることです。なぜなら私たちは常に誘惑に晒されているからです。自分が崇められたいという原罪、目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢を当然のこととするこの世、私たちの神信頼を壊そうとする悪魔がいるからです。

2つ目は、相手が悔い改めても悔い改めなくてもその兄弟のため祈ることです。もし自分にその苦しみが神様から試練として与えられているときは、神様が一緒に苦しんでおられます。キリストはあなたを見放すことはしません。しかし自分だけでは苦しいときには、一緒に祈らせて下さい。

主は、私たちが誘惑に負けそうになるとき、私たちの祈りに答えて下さる方です。また罪を犯したとしても祈るとき、必ず主は必ず助けて下さいます。主に信頼して歩んでいきましょう。



説教者:加藤 正伸 長老



<ヨハネによる福音書 13章21〜38節>


21 この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。

22 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。

23 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。

24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。

27 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。

28 父よ。御名の栄光を現してください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」

29 そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ」と言った。

30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。

31 今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。

32 わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」

33 イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。

34 そこで、群衆はイエスに答えた。「私たちは、律法で、キリストはいつまでも生きておられると聞きましたが、どうしてあなたは、人の子は上げられなければならない、と言われるのですか。その人の子とはだれですか。」

35 イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。

36 あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。

37 イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。

38 それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現されましたか」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。