2023年7月2日



「神の子らを1つに集めるために」

新約聖書:ヨハネの福音書 11章45〜57節



A 始めに

今日は、前半で、ラザロの復活の事実をもってしてもイエス様が神の御子であることを信じないパリサイ人のことを、後半で、イエス様は、ユダヤ人と私たちを罪から救い出すため、また1つに集めるために死のうとされていたことをお話しします。


B パリサイ人たちの反応

イエス様の奇跡を見ても信じない人がいました。パリサイ人たちのところに行って、イエス様のなさったことを報告します。これを聞いた祭司長とパリサイ人たちは最高法院(議会)を招集し、政治的に自分たちの利益を守るため、イエス様を殺すことで一致しました。

この時、大祭司カヤパは「あなた方は全然何もわかっていない。ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だと言うことも、考えに入れていない。」と言います。自分たちの利益を守り、国民全体が滅びないためにも、イエスを殺してしまった方が良い、と言うわけです。

しかし、この言葉は無意識のうちに真理を預言していました。イエス様の死が、ユダヤ人と散らされている神の子達を1つに集めるという預言です。


C 神の子らを1つに集めるため

52節の「散らされている神の子たちを1つに集めるために死のうとしておられ」たとあります。「神の子」とは、復活後のキリストに対する称号ですが、イエス様を信じた者も神の子と呼びます。(ヨハネの福音書1章12節。)

「1つに集めるため」とは、ヨハネ10章14節?16節にあるとおりです。「わたしは良い牧者です。…わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。わたしにはまた、この囲いに属さない他の羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、1つの群れ、ひとりの牧者となるのです。」詳訳聖書では「1つの体に結合する」と訳しています。

私たちは、家庭や会社、社会で、他の人と意見を合わせることに気を使います。しかし、神を信じる者は、人よりも神のことばに聞き従うことが第一なのです。私たち信徒の一致もここにあります。 神の御声を外れて一致はありません。私たちはイエス様の御声に従って行くのです。


D 聖餐による一致

ここで聖餐式の意味を考えてみましょう。聖餐とは、パンとぶどう酒と共にある主イエス・キリストのまことの体とまことの血のことです。イエス様は私たちのために肉を裂き、血を流されました。この聖餐にあずかることは、私たちに、罪の赦しとその確信、主イエスとの親しい交わり、永遠のいのちに生かされると言う恵みを与えられることです。この聖餐は、初代教会の時から今日まで全世界の教会で続けられてきました。

聖餐は、また、私たちをキリストと強く結びつけ、私たちに一致をもたらします。

聖餐式の式辞には次のような御言葉があります。「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストの体にあずかることではありませんか。パンは1つですから、私たちは、多数であっても、1つのからだなのです。それは、みなのものがともに1つのパンを食べるからです。」(コリント人への手紙第一10章16,17節) 


E キリストにあって、1つに集められる

イエス様は、ユダヤ人と私たちを罪から救い出すため、そして私たちを1つに集めるために死なれました。教会の頭はキリストです。このお方に従ってきましょう。



<ヨハネの福音書 11章45〜57節>

45そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。

46しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。

47そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行っているというのに。

48もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」

49しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは全然何もわかっていない。

50ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」

51ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、

52また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。

53そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。

54そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをしないで、そこから荒野に近い地方に去り、エフライムという町に入り、弟子たちとともにそこに滞在された。

55さて、ユダヤ人の過越の祭りが間近であった。多くの人々が、身を清めるために、過越の祭りの前にいなかからエルサレムに上って来た。

56彼らはイエスを捜し、宮の中に立って、互いに言った。「あなたがたはどう思いますか。あの方は祭りに来られることはないでしょうか。」

57さて、祭司長、パリサイ人たちはイエスを捕らえるために、イエスがどこにいるかを知っている者は届け出なければならないという命令を出していた。



説教者:加藤 正伸 長老