2022年12月18日



「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」(アドベント第4週)

旧約聖書:イザヤ書40章1節〜11節



1、初めに


いよいよクリスマス前の第4週のアドベントの礼拝を迎えました。

アドベント(Adventus)はラテン語で「表れ、来臨」の意味でした。イエス様が来られるまでの期間、信仰をもって救い主をお迎えする備える期間でもあります。

前回(11月27日)のメッセージでは、ダビデ王国がソロモン王の後、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂し、BC722年に北イスラエルがアッシリヤ帝国に攻められて陥落し、南ユダ王国も極めて厳しい状況にある中でイザヤが召命を受け、「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と言って神の預言者として立ち上がったところを見ました。

イザヤは、神の預言者としてインマヌエル預言と言われる7章14節「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」の言葉とメシア預言と言われる9章6節の「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」という重要な預言を残しました。

また、イザヤ書は(後世の人が考えたことですが)小聖書と言われることがあるように、1章から39章(39章)までと40章から66章(27章)までとで分けることができます。聖書の旧約聖書39巻、新約聖書27巻の全66巻に内容的にも対応しているということができます。

本日は、このイザヤ書の後半部分が始まる40章を読み解いていきたいと思います。



2、イザヤと時代的背景について


イザヤ(ヘブル語、イェシャヤーフー)という名前は「ヤハウェー(主)の救い」という意味を持っています。ユダの王アマツヤの兄弟であるアモツの子で王宮に出入りすることができた人物だったと思われます。ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に預言活動をしました。ヒゼキヤの後に王となったマナセのときに殉教したと伝えられています。したがって、BC740年〜BC690年頃までの約50年間預言者であったと思われます。

イザヤはユダ王国がバビロンに滅ぼされ、民はバビロンに捕囚となることを預言していました。(39章5〜8節)

5 すると、イザヤはヒゼキヤに言った。「万軍の主のことばを聞きなさい。

6 見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、と主は仰せられます。

7 また、あなたの生む、あなた自身の息子たちのうち、捕らえられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者があろう。」

8 ヒゼキヤはイザヤに言った。「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい。」彼は、自分が生きている間は、平和で安全だろう、と思ったからである。

このあと40章から55章までバビロン捕囚期の内容、預言が記されています。

BC597年にユダの最後から2番目の王エホヤキンが王となりますが、3ヵ月と10日でネブカドネザルにより宮にあった財宝もろともバビロンにひかれていきました。これがバビロン捕囚の始まりとなりました。そのバビロンがBC539年にペルシャ王クロスによって滅ぼされ、エルサレムへの帰還が許されるまで捕囚期間は続きました。その後徐々にエルサレム帰還した人々がエズラの指導により神殿の再建をはじめ、エルサレムの神殿が完成するのはBC516年のことです。

イザヤ書にはバビロン捕囚期のことが40章以降に書かれているので40章以降の内容を記した第二、第三のイザヤがいるのではないかとの説もあります。しかし、聖書の伝統的な解釈では、著者はイザヤ一人です。それは新約聖書がイザヤ書を多数引用していますが、イエス様もマタイもルカもヨハネやパウロもイザヤとしか言っていないからです。

参考;マルコ(7:6〜7)、マタイ(3:3、4:14〜16、8:17)、ルカ(4:16〜20)、使徒の働き(8:26〜35)、ヨハネ(12:39〜41)、ローマ(9:29、10:20)



3、慰めよ。慰めよ。わたしの民を(イザヤ書40章1〜2節)


1 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。

2 「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」

BC597年に新バビロニアの王ネブカドネザル2世の攻撃を受けたユダ王エホヤキンが降伏し、数千人の貴族、聖職者および中産階級の国民とともにバビロンに連行されました。その後もBC586年、BC581年、BC578年にも捕囚が行われました。

捕囚期間が50年ほども続いたのちに、ユダヤ人はアケメネス朝ペルシャの初代の王キュロス2世のキュロスの勅命(紀元前538年)によって解放され、故国に戻ってエルサレムで神殿を建て直すことを許されることになります。

ユダヤ人たちは、この捕囚の期間を異郷の地でペルシャ文化の中で自分たちの信仰を守らなければなりませんでした。自分たちは、アブラハム契約、ダビデ契約の継承者であるとの自己認識、アイデンティティはどうなったのでしょうか。捕囚となり、神殿もなく、モーセの律法を守ることも許されないような状況の中で、信仰を守ることはできたのでしょうか。神は、イスラエルの民への約束を忘れてしまったのでしょうか。

そのような状況の中で、主から聞こえて来た言葉が、「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」です。神自らが「慰めよ」と命じています。ヘブル語(????ナ?ハムー)は「あなたたちは完全に慰めなさい」という意味の語で、複数のものに対して「慰めよ」と言っています。誰に対して語られた語なのか議論がありますが、天の軍勢とかケルビム、セラフィム(6章2節でイザヤの召命のときに登場している。)が天で話し合っている場面を考えている聖書学者もいます。いずれにしても神様は、イスラエルの民に対して2節にあるように「その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けた」と語り、イスラエルの罪を赦し、慰めを与えようと仰っています。祖国を失い、神殿や信仰の生活を失ったものに対して、人間的な気休めや安っぽい慰めは何の助けにもなりません。伝道者の書4:1には次のようにあります。

私は再び、日の下で行われるいっさいのしいたげを見た。見よ、しいたげられている者の涙を。彼らには慰める者がいない。しいたげる者が権力をふるう。しかし、彼らには慰める者がいない。

神の言葉だけが人を慰め、力づけ、信仰を保ち続けさせてくださいます。実際、イスラエルの民はこの捕囚の期間に、労苦し、悔い改めたので「その咎は償われ」、信仰を保ち続け、ユダヤ人の民族意識を高め、ユダヤ教の教理を確立し、イスラエルへの帰還の希望を持ち続けることができました。



4、荒野に呼ばわる者の声がする(3〜8節)


3 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。

4 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。

5 このようにして、主の栄光が現されると、すべての者が共にこれを見る。主の御口が語られたからだ。」

6 「呼ばわれ」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう」と答えた。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。

7 主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。

8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」

3節は新約において、バプテスマのヨハネがイエス様の道備えを行うことによって成就する預言です。マタイ3:1〜3では次のとおり記されています。

1 そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。

2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

3 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。

イザヤは捕囚のイスラエルの民がエルサレムに帰還することを預言しながらも、「すべての者が共にこれを見る」と言って、当時のユダヤ人たちが想像すらできないような神を信じるすべての人が栄光を見る時代が来ると言っています。このことは正にキリスト・イエス様が地上に来られる時のことではないでしょうか。キリストの降誕と再臨をイザヤは見ていたのではないかと思います。

6節でイザヤに「呼ばわれ」という命令が聞こえました。何と呼ばわりましょうというと「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ…」と答えます。

★翻訳の比較です。

(新改訳第3版) 「呼ばわれ」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう」と答えた。

(新改訳2017年版) 「叫べ」と言う者の声がする。「何と叫びましょうか」と人は言う。

(口語訳) 声が聞える、「呼ばわれ」。わたしは言った、「なんと呼ばわりましょうか」。

(文語訳) 聲(こえ)きこゆ云(いは)くよばはれ答へていふ何とよばはるべきか

(NIV) A voice says, "Cry out."And I said, "What shall I cry?"

(リビングバイブル)  「大声で叫べ!」という声が聞こえます。  「何と叫んだらよいのですか」と、私は尋ねました。

(新共同訳) 呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。

(マタイ3:3) 荒野で叫ぶ者の声がする。(βοωντο?ボオゥントス叫ぶ[者の]が使われている)

神様は、預言者に人生の儚さ、人の弱さは野の花のようだと言っています。砂漠に咲く花は熱風の一吹きで枯れてしまいますが、人の一生もそのようなものだと言っています。詩篇90篇を思い起こさせてくれる言葉です。

「あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。」

また、Tペテロ1章23節でペテロがこの箇所を引用しています。

23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

24 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。

25 しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。

正に、ペテロが言うようにイザヤのこの聖句は私たちが神の言葉によって生きるという福音のことばなのです。



5、シオンに良い知らせを伝える者よ(9〜11節)


9 シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。「見よ。あなたがたの神を。」

10 見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。

11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。

何と高らかに喜びの良い知らせを伝えていることでしょう。イスラエルの民はバビロンの抑圧者の手の中に見捨てられたのではなく、神様の慈しみ深い愛のもとにあったのだということ、神様の栄光を見、祝福を受けるということが歌い上げられています。そのことは、5節にもあったように、主イエスの御降誕、復活、再臨を信じる私たちも共に栄光を見るものであるとの良い知らせ(福音)です。10節にあるように、私たちは弱いけれども、主は死にも打ち勝ち、永遠のいのちを与えてくださいます。また11節では羊飼いが子羊を引き寄せ、ふところに抱くように優しく導いてくださると言っています。

力と愛に満ちた方が来られるという約束です。



6、まとめ


アドベントの4週目の礼拝でした。イザヤ書40章以降はバビロン捕囚期の預言が中心となります。カトリックの教会では3年に一度アドベントの第2主日にこの箇所から説教がされます。特にそのことを意識したわけではありませんが、バビロン捕囚期のイザヤ書の内容は、暗闇の世界から光の世界に導き出されるような天地万物を統べ治められている神様の力というか、人間には及びもつかない深淵さのようなものを感じます。

イスラエルの民は、バビロンに50年以上も捕囚となり、その文化も信仰を失っても不思議ではないのに、むしろその間にユダヤ教は教義が確立したと言われています。神様に見放されたと感じてもしようがないような状況の中で、「慰めよ」の言葉がイザヤに聞こえたのでした。おそらく不平を言っても、逆らっても何をしてもだめだと思ったとき、全く自分たちの力ではどうすることもできない状況において「慰めよ」が聞こえたに違いありません。まだ、何とかできる、神様には頼らないと思っている、自分の力に頼っているときには神様の声は聞こえなかったのでしょう。

「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」

イザヤ書30:15




<イザヤ書 40章1〜11節>

1 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。

2 「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」

3 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。

4 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。

5 このようにして、主の栄光が現されると、すべての者が共にこれを見る。主の御口が語られたからだ。」

6 「呼ばわれ」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう」と答えた。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。

7  主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。

8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」

9 シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。「見よ。あなたがたの神を。」

10 見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。

11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。





説教者:新宮 昇 長老