2022年9月25日



「イサクのふたごの息子たち」

旧約聖書:創世記25章19節〜34節




1、初めに


前回(8月21日)までのおさらいを簡単にしましょう。

アブラハムは愛する妻サラに先立たれ、アブラハムが所有する最初の土地(マクペラのほら穴)に妻を葬り、アブラハムの信仰を継承するイサクのために故郷からリベカを迎え、アブラハム自身も次の奥さんケトラを娶りました。神が祝福してくださり、ケトラとの間にも6人の子どもたちが与えられます。また、アブラハムと女奴隷ハガルとの間に生まれたイシュマエルの子孫も祝福を受け、12の部族の長になるのです。イシュマエルやケトラとの間の子どもたちにもアブラハムは財産を分けてやり、それぞれアラブの国々の祖先となっていきます。

しかし、アブラハムと神との契約を相続する者はサラとの間に生まれたイサクです。イサクは父から相続すべき全財産を相続し、アブラハム契約の相続者ともなっていきます。本日の聖書箇所25章19節から35章29節までがイサクの歴史(ヘブル語?????トルドット、系図【生み出された者たち】)になります。

今日はアブラハムからイサクに引き継がれた神様の約束、祝福がイサクの息子にどのように継承されていくかを見ていきましょう。



2、イサクとリベカにふたごの子が与えられる19節〜21節)


この19節から「イサクの歴史」が始まります。創世記が「イサクの歴史」と言うとき、イサクだけの記録ではなく、その息子エサウやヤコブ、その妻たちの歴史も語り、35章まで「イサクの歴史」が続きます。

さっそく見ていきましょう。イサクがリベカと結婚したのは40歳のときでした。リベカもアブラハムの妻サラが不妊の女だったように、中々子ができませんでした。26節を見ると「イサクは彼らを生んだとき、六十歳であった。」とありますから、20年間、子が与えられなかったことになります。

イサクの父アブラハムは女奴隷ハガルに長男イシュマエルをもうけましたが、イサクは「妻のために主に祈願した」とあります。イサクはハガルやイシュマエルと母サラとの確執を知っていたでしょうから主に祈るという正しい方法を取ることができました。そして主が彼に答えてくださるという素晴らしい経験をすることができたのです。



3、リベカへの神の預言(22節〜24節)


リベカが身ごもったとき、お腹で子どもたちがぶつかり合うようになったと言います。リベカは無事に出産することができるか心配になったのでしょう。リベカも神に祈っています。23節で大変重要なことを主はリベカに伝えました。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」この重要な主からの言葉をイサク一家は家族で共有できなかったことが、この家族の問題を大きなものにしてしまいます。



4、イサクのふたごの息子たち(25節〜28節)


ふたごの息子たちは、ふたごのにもかかわらず全く似ていなかったようです。先に生まれて来た子が「赤くて、全身毛衣のようであった」のでエサウと名付けられました。ヘブル語で毛深い(??? エサーヴ)という言葉からきています。また、「赤い」はヘブル語でアドモニー(??????)と言いますが、この言葉からエサウの子孫がエドム人と呼ばれるようになります。一方、後から生まれて来た弟の方は、「エサウのかかとをつかんでいた」ことから、かかとをヘブル語でアーケーブと言い、かかとをつかむ者というヘブル語からヤアコーヴ(????)と名付けられました。

聖書は成長したエサウとヤコブの姿を短く描いています。

まず、エサウです。「エサウは巧みな猟師、野の人となり」と書かれています。身体も毛深いですし、野性的な男性的なイメージでとらえられることが多いようです。しかし聖書の記述によると必ずしも健康的な好青年ということではないようです。マラキ書1章2,3節を見ましょう。「――主の御告げ――わたしはヤコブを愛した。わたしはエサウを憎み、彼の山を荒れ果てた地とし、彼の継いだ地を荒野のジャッカルのものとした。」と書かれています。エサウは家族や主を礼拝することより荒野を愛したのでしょう。

次にヤコブです。「ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んでいた。」と書かれています。ヤコブのイメージはこの「穏やかな人」、「天幕に住んでいた」というところから、内向きの人、お母さんっ子、弱々しいイメージが付きまといます。しかし、この「穏やかな人」の元のヘブル語は「タム(??)」という語で、意味は「完全な(者)」という意味です。

この語が使われているほかの聖書箇所は、創世記6:9「ノアは、正しい人であって、…」やヨブ記1:8「彼のように潔白で正しく、神を恐れ、…」に使われています。罪がないという完全ではなく、神に対する姿勢が正しいという意味で正しい人に使われる語です。日本語の聖書は文語訳が「ヤコブは質樸(すなほ)なる人にして天幕に居ものとなれり」と訳している以外は、新改訳、新改訳2017、共同訳、口語訳では「穏やかな人」となっています。

「正しい人」という意味と「穏やかな人」という意味を考え併せてみると、ヤコブはエサウと違って家や地域社会との結びつきや規範を大切にし、神の前に正しく歩む人だと言っているのです。主の前に正しく歩むところからエサウと比較して「穏やかな」生活を送る人だと形容されたのではないでしょうか。

「天幕に住んでいた」とも記されていますが、家の中に閉じこもっていたわけではなく、天幕に住みながら牧羊者の仕事をしていたということです。エサウは荒野に出て狩猟を仕事とし、ヤコブは家の家畜を守り育てていたということになります。

以上のことから、イサクの一家には、性格も行いもかなり異なる兄弟がおり、イサクとリベカの夫婦も互いに異なる息子を愛すようになり、複雑な問題を抱えた家族になっていきます。



5、長子の権利の譲渡(29節〜34節)


いよいよメインテーマの長子の権利の譲渡について29節から記されています。

まず長子の権利とは何でしょうか。一言で言えば、長男が父の身分を継いで種族の代表となる様々な特権ということになりますが、アブラハム契約に基づく長子の権利は次のような内容を含んでいます。

(1)財産の権利

申命記21章17節に「・・・長子として認め、自分の全財産の中から、二倍の分け前を彼に与えなければならない。彼は、その人の力の初めであるから、長子の権利は、彼のものである。」とあります。父の三分の二の財産を長子に譲与されるという規定です。

(2)霊的な祝福

礼拝や宗教的行事を行う。

(3)メシアの家系に連なる

アブラハム契約に基づく長子の権利はメシアを世に送り出すという特権がある。

(4)カナンの地を所有する

アブラハム契約に基づきカナンの土地をその子孫が所有することになる。


29節から33節までは、兄エサウが弟ヤコブに長子の権利を譲渡する場面を描いています。エサウは長い狩猟の日々から戻って来たのかもしれません。空腹で飢え疲れて死にそうだと言っています(29、30、32節)。レンズ豆の煮物を見つけて「そこの赤いのを、そこの赤いものを」とも言っています。子供のように簡単な言葉しか出ないぐらい飢え渇いていたのでしょう。一方、ヤコブは常日頃からエサウから長子の権利を何とかして譲ってもらおうと考えていたので、この時を逃してはならないと「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい」と言って、長子の権利をパンとレンズ豆の煮物で譲るように迫りました。エサウは「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう」と言って、長子の権利を譲ってしまいます。

27章でエサウは父イサクに泣きながら「私を、お父さん、私も祝福してください。」と言って長子の祝福を求めるのですが、気がついたときは既にとき遅しです。

長子の権利とヤコブのパンとレンズ豆の煮物とのやり取りは、エサウの空腹という弱みにつけ込んだようにも見えますが、形式としては権利の譲渡の形式を踏んでおり、ヤコブがエサウを騙したとは言えません。34節では「エサウは長子の権利を軽蔑したのである。」と記されています。また、ヘブル書12:16でも「一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。」と言われています。



6、神の選びの問題


23節で主がリベカに「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」と預言されました。神はアブラハムからイサクへと引き継がれるアブラハム契約の継承者としてヤコブを選び、長男エサウを退けると仰いました。エサウが生まれる前から、決められていたのはエサウが気の毒だという声が聞こえてきそうです。ローマ9章には次のように書かれています。

11 その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、

12 「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。

13 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。

神の選びの計画は確かなのです。

ヘブル書で「一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売っ」てしまうような俗悪な者と厳しく断罪されるエサウを、神はアブラハム、イサクの後継者にはできなかったのです。

神は人の心を見る方です。Tサムエル記16:7に「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」と書かれているとおりです。

このことは私たちクリスチャンについても言うことができます。私たちクリスチャンは確かに神に選ばれてクリスチャンとなっています。エペソ1章3、4節に「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」と書かれているとおりです。では、クリスチャンでない人は、救われないように選ばれているのでしょうか。決してそんなことはありません。主を求める心があり、私たちの長子と言えるイエス・キリストの救いを受け入れるなら、だれでも神の救いの選びから漏れることはありません。

ご承知のとおり、ヤコブも行いにおいては決して「タム(??)正しい」とは言えない人物です。今後見ていくことになりますが、ヤコブの人世には苦労と悲しみが後から後から押し寄せてきます。パンとレンズ豆の煮物でエサウに長子の権利を譲らせ、エサウになりすまして父から祝福を受け、アブラハム契約の継承者になりますが、もっと正しい方法があったのではないかとも思います。しかし、主を求める気持ちにおいては、エサウとは比べものにならないほど篤い信仰を持っていたと言えます。


創世記48章で死を前にしたヤコブ(イスラエル)が祝福の言葉を述べます。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。すべてのわざわいから私を贖われた御使い。この子どもたちを祝福してください。」

ヨハネ15章16節「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」




<創世記 25章19〜34節>

19 これはアブラハムの子イサクの歴史である。アブラハムはイサクを生んだ。

20 イサクが、パダン・アラムのアラム人ベトエルの娘で、アラム人ラバンの妹であるリベカを妻にめとったときは、四十歳であった。

21 イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。

22 子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は」と言った。そして主のみこころを求めに行った。

23 すると主は彼女に仰せられた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」

24 出産の時が満ちると、見よ、ふたごが胎内にいた。

25 最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それでその子をエサウと名づけた。

26 そのあとで弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名づけた。イサクは彼らを生んだとき、六十歳であった。

27 この子どもたちが成長したとき、エサウは巧みな猟師、野の人となり、ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んでいた。

28 イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。リベカはヤコブを愛していた。

29 さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。

30 エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」それゆえ、彼の名はエドムと呼ばれた。

31 するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい」と言った。

32 エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう」と言った。

33 それでヤコブは、「まず、私に誓いなさい」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。

34 ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。



説教者:新宮 昇 長老