2020年8月23日


「神の創造、神の祝福」
創世記 1章20〜25節

1.「前回まで」
 天地創造の3、4日目、神はその言葉で、下の水が一所に集まるようにすることによって海を創り、同時にかわいた地を生じさせた後に、そのかわいた地に、種を持つ植物や、種をもつ果実を結ぶ果樹を種類に応じて芽生えさせました。そしてその植物が育っていくために、太陽を作り、太陽に季節をつかさどらせ、季節の中で植物は育つようにしました。さらには夜には月と星々を輝かせました。その果てしないほどに広がる宇宙への星の配置もまた偶然によるものではなく神の言葉によってなされたものであり、それら全ては神のみ心にかなっているがゆえに、神はそれらを見てよしとされたのでした。そのところにも人間の思いをはるかに超えた、理性や科学では全く信じられない出来事が記されていたのですが、しかしその信じられないことを人間の有限な知識や常識にはめ込むのではなく、神は、人間によって作られた有限の被造物ではなく、理解を超えてなんでもおできになる創造主である神であるがゆえに、私達は与えられている信仰において、わからないことはわからないままにして、理解の限界を告白し、聖霊の生徒でありつづけ、むしろ信仰が与えられているからこそ、不安や疑念ではなく、神にあって平安と希望を告白できる幸いに再びたち帰らされました。そしてそのように植物や天体の創造も人間の誕生のために備えられているという幸いを覚えると同時に、だからと言って人間が自然を支配し好き勝手にしたり奪い合ったりするのではなく、神が「良かった」と言われたその被造物を、感謝し大事にし、そして互いに分け合い愛を持って利用させていただくことの幸いをも教えられたのでした。

2.「第5日」
「神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神はそれを見て良しとされた。」20〜21節

A,「言葉によって」
 神はその言葉によって水を下の水と上の水に分け、そしてその間に大空を置き、そして下の水をひと所に集めてかわいた地を生じさせました。そしてかわいた地にまず植物を創造しましたが、5日目、ひと所に集められた下の水である「海」と名づけられたところに水中の生き物、その上の大気、大空には空を飛ぶ鳥を創造されるのです。大事なことは、そこでも神の方法は決して変わらないということです。神は「仰せられた」とあり、「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」とある通り、神はその言葉によって水の生き物と空の鳥も創造したのでした。この21節には「海の巨獣」という言葉があります。この書物が書かれた時代には、異教の様々な神話があり、創造のはじめには、そのような海を支配する、神に近いような存在として神々と戦った、海に住む大きな生物の言い伝えがありました。ここでモーセはそれを否定するようにこの言葉を使っており、それは旧約聖書では、へびとか、龍とか、ワニなどを意味する言葉として使われています。つまりそこには、神々も被造物が神とされるような神聖な動物もおらず、神は唯一であり、その海の巨獣が海の深淵に住むどんな大きく強い生物であっても神ではなく被造物であり、神のみが唯一の創造者、神は一人であるというモーセのメッセージがあるでしょう。

B,「種類にしたがって」
 またここには植物と同じように「種類にしたがって」と書かれています。これは22節以下の地上の動物にも言えることではありますが、
「地が、種類にしたがって、生き物を生ぜよ。家畜や、はうもの、野の獣を、種類にしたがって。」そのようになった。神は、種類にしたがって野の獣を、種類にしたがって家畜を、種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神はそれを見て良しとされた。」24〜25節
 このように「種類にしたがって」と一度ならず何度も繰り返されています。この言葉から、神は一つの生物を作り、そこから進化の過程を経て様々な種類が増えていったとは伝えません。初めから神は多くの種類を設計しその種類を生じさせたことがわかります。もちろん設計者が同じですから、その種類の遺伝子においては似通ったものや近いものがあるでしょう。しかしそれが一つから多数という種類の生成ではなく、神は初めから「種類に応じて」その多くの種類の海の生物と空の鳥を創造したのでした。それもまた進化論を唱える科学の視点から見れば大多数の人にとっては理解できない信じられないことだと言えるでしょう。そして未だ発見されていない海の生物がいると言われている中で、その数え切れないほどの海の生物の種類を人格者である神が考え出し設計し命を与えたと言われても、人間の知識に当てはめるなら気が遠くなるようなあり得ないことにも見えてきます。それは偶然に一つの生物から、何億年もかけけて進化して数えきれない種類になったという説明の方が、合理的かつ科学的で、人間の頭や知識や論理性において納得できてぴんとくることでしょう。
 しかし、神はそのようにこれら海や空や陸地の生物の起源や種類を説明しませんでした。それは人間の知識や常識に合わず、超えていることではありますが、神はその意思と計画とその力ある言葉で、海、空、地上のその無数の生物の種類を創造したのです。そして種類に応じてとあるように、その種類はその神の立てた創造の秩序に従って分類されてその種類として生き始めたのでした。さらにはそれらを見て神は「よしとされた」とあるように、全ては完全であり神の意思にかなっていたということを意味しているでしょう。つまり完全なのですから、自然淘汰など、ほかの生物との生存競争の関係で消えたり、不足や脅威を自ら克服して種を残すために進化していったということではないということです。神が創造されたその海、空、地上の生き物全てが「良かった」のですから。互いに不足や脅威はないのです。全ては神の意思と秩序に適っていて全てに調和があったのでした。神の「良し」神の「良かった」は、それほどまでに大事な言葉です。

C,「神が啓示される神の背中は超えられない」
 それは同時に、何度も言うように、確かに現代の人間の頭、知識、常識、理性には、全く当てはまらない、調和しない言葉でもあるでしょう。人間の知性や理性の偉大さと完全さを信じたい人にとってはなおさらのことです。しかし、人間はこの宇宙の中でとても小さい存在であり、その知性が大きく見えるのも、この地上の、限られた地域や社会や国でのことです。それは地上でも、ある人々によって信じられている当たり前の知識のようの思われている事柄であっても、その地上でさえ、全ての人々や全ての民族や部族において決して共通ということでもありません。それにそのどの知識や常識であっても決して完全はありませんし絶対もありません。人間は有限で小さな存在、しかし狭い範囲での多数決を真理にし易いのです。
 だからと言って、誤解してはいけないのは、キリスト者はそれらを批判したり敵対することさえ目的ではないということです。この時のことは誰も見ていないのです。誰もはっきりとこれだと言えないのです。しかしみ言葉だけが神の啓示であり真理であるのですが、それでもその啓示が全て示されているのではなく、神はこのモーセを選んで、そこに神が良しとした言葉と表現を用いて、全てではなく限られた内容をその言葉を通して私達に示しているにすぎません。モーセが神の顔を見たいと思っても、神は神が選んだ方法で、限られた神の背中にしかご自身を見せなかったのと同じように、私達は神が選び指し示したところにしか、つまりみ言葉とそこで指し示されている人となられたイエス・キリストにしか神と真理を見ることができないのです。様々な推論や踏み込みは、それを超える行為であり、そして超えられもしないのです。ですから私達、神の言葉であると信じる信仰を与えられている者にとっては、それは聖霊がみ言葉から教えるところにしたがってその通りに信じていきます。しかしそれでもわからないことについては、やはり、わからないことを告白し、わからないままにしておく、聖霊を飛び越えて、私たちが神になったように、聖書を捻じ曲げてまでも、このところを人間の枠にはめて、教えることをしないようにする。どこまでも聖霊の生徒のままでいる、そのことが何より大事であることを、繰り返し繰り返し、改めてたちかえらされます。神を神とすることが、与えられている信仰なのですから。

3.「祝福は神から」
 そして今日のところにはもう一つ幸いな言葉と事実があります。22節です。
「神はそれらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」夕があり、朝があった。第五日。」22〜23節
 ここに聖書で最初の「祝福して」という言葉が出てきます。まずここにはっきりと教えられます。それは「祝福」は神から一方的に出ているということです。ここで、誕生したばかりの海や空の生物が何かをまず先にしたから祝福されたということは書かれていません。もちろん良しとされた、良かったともあります。しかしそれも生物が何かをしたからその目にかなっていたということでありません。神がご自身でそのみ言葉で創造したご自身のものを見て、良かったと言っているのであり、創造されたものはそこにあるだけです。その神が創造されたご自身のものを見て、神は良かったと言ったのであり、その存在そのものを、神は「祝福して」とあるのです。つまり祝福は、被造物自らのなんらかの行動や功績や自ら示すほかと比べての優位性に起因してはいません。祝福されるかどうかは、被造物の何かに寄らない。祝福は神から出ているということです。

A,「祝福は福音。「何かをするから」の律法ではない」
 確かにこの後、人は堕落します。しかしそれでも神がアブラハムを選び、召命を与えて約束したその祝福は一方的であり、アブラハム自身は罪深い一人であったのですが、神はその行いではなく、信じる信仰を義とされたとあり、その約束の祝福は、未来のイエス・キリストにおいて成就されるものです。そのイエス・キリストに成就される、信仰による救いの祝福であるというなら、それは賜物でありそこには一切の人の側の功績や行いはないのですから、神においては一方的で「既に」の祝福でもあったでしょう。実際、その子孫であるヤコブはあまりにも罪深く、その行いは、決して敬虔と呼べるものではないにも関わらず、神の祝福はその約束のゆえに決して変わらなかったでしょう。祝福は人の何かによらない、神からの福音です。そして何よりそれはイエス・キリストの十字架にこそ現れているでしょう。イエス・キリストによる救いと神の国こそが堕落の時から神によって既に約束された最高の祝福ではありませんか。それは、何かをしたからですか?何か私たちの方でわずかでも立派なところがあったから、意思の強さで神に貢献できたり、近づけたり、告白できたり、信じられたりしたから、神はイエス・キリストを送ってくださったのですか?そうではありません。私達は自分が罪深いということさえ知らなかった。律法で示されるまで。いや示されても、私達はそんなに自分は悪くないと思いたい。むしろ何も隠し通すことのできない神の前にあっても、サウル王が、罪の言い訳をし、ダビデも罪を繕い覆い隠そうとし、またパリサイ人が、神殿で、自分はなんでもしっかり守っている、こんな立派なことを沢山している、とかくこの隣の罪人のようではないことを感謝しますと祈ったように、神の前で自分の罪深さを認めず、隠し、かつ、自分の行いで罪を覆い隠そうとするものです。最初の人が、藪のかげに神から隠れたようにです。私達の肉の性質では罪にさえ気づかなかった。示されても認められない存在。しかしそんな私達のところに、神は一方的にその神ご自身が立てた祝福であるイエスを、人知れず、誰も思いもしなかった飼い葉桶の上においたでしょう。そして誰もが思いも予想もしない忌み嫌う、あの十字架の上にこそ、私達の罪の赦しという、最高の祝福を成就し現してくださったではありませんか。祝福はどこまでも神からです。そして神がその言葉を持って、与え、神がその言葉を持って成就し、私達がその神の約束、言葉のゆえに、既に祝福されているのです。何をするから祝福されるのでは決してありません。何をしないから、何を達成しないから祝福されていないのでもありません。イエス・キリストにあっては、私達は既に祝福されているのです。祝福は神から。それはもう天地創造のはじめから変わらない神の真理なのです。

B,「創造の最初の祝福は、いのちの継承の恵み」
 そしてその創造の最初の祝福は「生めよ増えよ。地を満たせ」とある通りに、それは、新しいのちが誕生し、種類に応じて命あるものが増えて、命が受け継がれて行くことであることがわかります。命は「神の良かった」であるからこそ尊いし、その命は、新しい命を生み、親から子へ、その子からその子へと、命が受け継がれていきます。その命そのものが祝福でもあるのですが、神がそこで祝福されたからこそ、その命の継承が始まって行きました。ですから親から子へ、その子からさらにその子へ、と代々というそのことは、そのように、決して「なければならない」律法でもなければ、偶然と本能の自然の生業でもないということです。全ては神の祝福から始まっており、祝福そのものであるということです。ですから産めよ増えよと命令形ではあっても、それは人間の側で勝手にバースコントールしたり、人間の欲求で産みだしたり殺したりもできない神の領域であるということです。神の祝福であるからこそ、人間の予定通りになるならないで、裁きあったり悲観したりすることでも本来はないということです。増えるも神のみ心であり、ならないのも神のみ心です。サラには、100歳近くになるまで子がありませんでした。レアは沢山の子を生みましたが、ラケルはそうではなかったために苦しみましたし嫉妬もしました。しかしどちらもその数にかかわらずに神の祝福であり、どちらがより祝福であり、祝福ではないというのは、人間の勝手に作り上げる律法です。神がそのご計画に従ってなされる「産めよ、増えよ」なのです。なぜなら神からは始まり、神がなす祝福そのものなのですから。もちろん現代は罪の世、命の問題は罪深さが溢れているの事実があり、神のみ心が解らなくなる時もあります。しかし素直に人間の罪深さは認め、解らないことは、解らないままにしておく。理解の限界を告白し、聖霊の生徒であり続ける。そのことにたち帰らされるのではないでしょうか。
 今日も、み言葉を通して、私達は悔い改めへと導かれますが、イエスは今日も、その祝福の言葉である新しいいのちの宣言をしてくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。安心してここから遣わされて行きましょう。 



創世記1章20〜25節
20 神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」
21 神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神はそれを見て良しとされた。
22 神はそれらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」
23 夕があり、朝があった。第五日。
24 神は仰せられた。「地が、種類にしたがって、生き物を生ぜよ。家畜や、はうもの、野の獣を、種類にしたがって。」そのようになった。
25 神は、種類にしたがって野の獣を、種類にしたがって家畜を、種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神はそれを見て良しとされた。