2020年7月26日


「初めに、神が天と地を創造した」
創世記 1章 1節

1.「神は誰によって」
 創世記は聖書の最初の書になり、このタイトルは、そのはじめの言葉です。もちろん聖書は神の言葉ではあるのですが、神はそのご自身の言葉を、神が選んだ人を用いて伝えます。ではこの創世記を通して神がその言葉を伝えるために誰が用いられたのでしょうか。誰によって書かれているのでしょうか。それはキリスト教の歴史において正統的には、この後の申命記までの5書はモーセによって書かれたと言われています。聖書批評という研究は、様々な資料による学問的科学的推論によって創世記もその後の申命記までの5つの書もモーセではないと言います。しかし私達ルーテル教会の「聖書から聖書を解釈する」ということから見るならば、何よりイエスご自身の言葉から、それはモーセによるものであると信じることができます。マルコ7章10節を見ると、イエスは旧約聖書の十戒を引用しているところでこう言っています。
「モーセは、『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言っています。 」マルコ7:10
また同じマルコのよる福音書12章26節でも出エジプト記のことを指して
「それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。」マルコ12:26
また、ヨハネの福音書でもこうあります。7章19節
「モーセがあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも、律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」
 このように聖書が、使徒たちが、そしてイエスが、創世記をはじめ、最初の5書は、モーセによって書かれたと証ししているのです。ですからルターはその注解書では、この5書について「モーセの書」とはっきりと書いているのです。

2.「神は何のために」
 では神はモーセを用いて、何を目的として、この創世記を初め5書を私たちに書き記しているのでしょうか。それはもちろん、一つは、神からの律法であり、そこにある契約とその民の歴史を例として、「教え」「戒める」ことにあります。パウロは「これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないため」(第一コリント10:6)と記しています。しかし彼はローマ書ではこうも記しています。「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」(ローマ15:4) と。確かに律法だけを見るなら、そこには戒めだけがあるように見えるかもしませんが、しかしそれはただ戒めるだけではないことをパウロは述べています。パウロは戒めの先に、励まし、希望を持たせるためだと言っており、つまりそこには律法だけではない福音の約束こそが含まれていることを教えています。ですから旧約聖書は決して律法中心の戒めのメッセージではありません。そこにはこの創世記の初めからイエス・キリストの福音が指し示され、私達を福音の約束に向けさせ希望と平安を与えるメッセージだということをまず初めに確認し見て行きたいのです。それはこれまでルカによる福音書や使徒の働きとも変わらないことです。イエスはこの旧約聖書も私達に戒めとその先に豊かにある平安を与ええようとしている。つまりこの旧約聖書からもイエスはご自身の十字架こそを指し示され、十字架が中心であり罪の赦しと新しいいのちの平安において私達を遣わそうとしておられるということです。それは何ら異常で不思議なことではありません。なぜならルカの福音書や使徒の働きでも見てきたように、イエスもパウロや使徒達も、旧約聖書からイエス・キリストの福音と神の国を指し示してきたのですから。


3.「神が天と地を創造した」
 さてこの最初の言葉です。「初めに、神が天と地を創造した。」ーどの訳の聖書を読んでもこのことは書かれています。しかもそれは無からです。しかしこれほどまでショッキングに富んだ書き出しはありません。人間の頭、知識、常識ではありえない信じられないと思われることであり、そこには人間の思索では決して結論に至らない多くの議論もあります。科学万能と理性の時代である現代の多くの人はこの最初で躓くことでしょう。これは神話であると。そして「神話である」という結論はキリスト教界の中でさえも持たれている認識です。聖書の書き出しはどの訳もほぼ変わらなくとも、キリスト教内では様々な古代のバビロニアなどの文書など、そして現代の科学的推論を研究し聖書の批評学者やリベラルな人々は、この神が全くの無から世界を創造したという事実を否定しようとし、むしろ物質の永遠性から世界の起源を説明しようとし、この初めは神話や人間の創作や何か比喩であるかのように説明しようとします。もちろん神学に限らず科学的証明もその発展も素晴らしいものであり、学問では重要で、それは人類のより良い生活や生命の保持のためにとても大事なものであることは全く否定はしません。しかし聖書がその世界のはじめを記し伝えるのみでそれらを科学的に証明するものではないように、科学やその聖書批評の研究もどんなに理性から推論を絞り出してもそのはじめを確信を持って断言し証明できるものは何一つありません。私達は聖書は神の言葉であるという信仰が与えられ信じるものなのですから、どこまでも聖書から聖書を解釈します。では聖書はこの聖書の始めの「神が天と地を創造した」ということについて何と証言しているでしょうか?

A,「聖書の証し:神が世界を創造した」
 まず「神が世界を創造した」ことについては、詩篇90篇2節にこうあります。
「山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。」詩篇90:2
 またエレミヤ書10章16節にはこうあります。
「ヤコブの分け前はこんなものではない。主は万物を造る方。イスラエルは主ご自身の部族。その御名は万軍の主である。」エレミヤ書10章16節
 このように神は天地万物の存在する前、永遠から存在され、何もない無から万物を創造されたされたことが証されています。ローマ4章17節にもこうあります。
「このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。 」ローマ4章17節
 パウロは、「彼」というのはアブラハムのことを言っていますが、そのアブラハムが信じた神、それは「死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で」とある通り、神は無から有を、その言葉で創造され、そして「死んだものを生かす神」、つまり、神がやがてキリストにおいてなさることをも示唆されています。そのような神をアブラハムも見ていたとパウロは証ししていることがわかります。

B,「聖書の証し:キリストを通して」
 さらにはその創造の始めには御子イエス・キリストがおられ神がイエス・キリストを通して万物を無から創造したということについてはこう書かれています。ヘブル書1章2節
「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。」ヘブル1:2
 この創世記1章1節の「創造した」という言葉、ヘブル語では「バラ」という言葉ですが、この言葉は神以外の主語においては使われることのない言葉でもありますが、それはこのように聖書からの証言とも一致していることにもわかるように、神の万物の創造を、聖書は私達に文字通りのことが紛れもない歴史の事実であると伝えてくれているのです。神はイエス・キリストとその言葉を通して、無から有を、万物を創造されたということです。それが誰も見たことのない、誰も証明できない、しかし聖書がモーセを通して伝え、神が選んだ聖書記者たちを用いて証され示される世界の初めでした。これは突拍子もない「空」を掴むような絵空事のように思うでしょうか。しかしこの後を見ていくと、それはあらゆる生命のはじめ、そして人間の初めと生命の起源のことも伝えられているので、決して私達と無関係なことではありません。私達は、自分達の力ではそれを見ることも理解することも信じることもできないのですが、しかし御言葉とそこに働く聖霊の豊かな力によって信仰が与えられ、この御言葉を通して、その信仰のゆえに信じ教えられる時、その幸いを教えられます。


4.「神が無から創造されたことの私達の幸い」

A,「いのちは奇跡:奇跡の存在」
 まず第一に、私達人間とその生命、それは全ての生物がそうであるのですが、その人間と生命、それはどの人種、民族、肌の色に関係なく、しかも等しく、全ての人間とその生命は、神が無から、無いものから、創造され、有る者とされ生ける者とされた、奇跡で有るということです。皆さん、私達は皆一人一人、神の素晴らしい作品であり、その永遠なる神の命から生まれた新しい命であり、私たちは神の奇跡の赤子、子供、家族で有るということがこの始めには宣言されているのです。それが奇跡であるということは、もちろん私たち人間からの見方です。神にとっては不可能なことはなく、その言葉には力があるのですから、神にとっては奇跡ではないことでしょう。しかし私達人間の側から見るなら、無から有、命のないところに命、それは奇跡です。そして神にとってそれは不可能なことではないとしても、神はその存在を軽くぞんざいに見ているということでは決してないことは、この後、続けて見ていくとわかることでもありますし、何よりそれがキリストの誕生と十字架に繋がっていることから、その無から創造された私達は、とても尊い大事な愛する命で有ることが見えてくるでしょう。神の大事な、奇跡の存在なのです。

B,「神はイエス・キリストを通して日々、新しくしてくださる」
 そして第二に「無から有を新しく創造される」ということは、イエス・キリストを通して、私達に起こった、いや日々起こっていることです。そのことを思い起こされます。私達はそのような神の前に愛された尊い存在であり、神の言葉にこそ始まり、神から生まれ、神を父とし、神の言葉によって命が躍動するはずの存在であるのに、その神に背を向け、反逆し、信ぜず、疑い、神の御心に反して罪を犯していく存在となりました。圧倒的罪人となり、神の言葉なしには自分の罪深ささえも気づかない、むしろ自分が神で有るように思い、行動し、期待し、そして日々、自分のバベルの塔を建て続けては、壊され、壊されても、バベルの塔を何度も立て続け、自分を中心に自分を偶像化し、褒められ称賛されようとして、自分を賛美する者です。逆に自分のバベルを壊されたり、自分の賛美を貶められたり、あるいはそのバベルの建設や賛美が思い通りにならない時に、私達は、さらに自分の思いを果たそうとし罪を犯すでしょう。何より心の中で。私たちは罪の故に、神の前では死んだ者です。罪のゆえに神の前に怒りの滅びの存在となりました。救いようがないのです。なぜなら自分ではどこまでも背を向け疑っていこうとし、信じようとせず、その神を自分で見ることも見出すことも、発見することも信じることもなんらできないからです。人は自分のバベルの塔をどんなに高く立てても、世界には自分を誇示できて繁栄を顕治できても決して人は神には至らないし救いには至らないのです。このように人は自らの堕落で神の前には無に帰しました。人は、死んでちりに帰り、そのちりさえ、いつかは無くなり、無に帰ります。
 しかし私達のイエス・キリストは、天地の創造者でもあり、新しい創造者です。その無に等しい死んだ私達に命を与えてくださった。神の前では霊はまさに死んでおり、罪ゆえに滅びを待っていて、その肉体も無に帰るしかなかったそんな私達に、罪の赦し、そして罪から解放された、新しいいのちを与えてくださったお方ではありませんか。それが新しい創造です。私達は、死んだものが生かされた。死は無であり、死から生はあり得ないことですが、しかし死から新しいいのちへ、それがイエスが伝え、イエスが十字架と復活を通して与えてくださったことです。イエスはニコデモに言ったでしょう。
「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ヨハネ3章3節

C,「新しい創造は日々」
 新しく生まれる、無から有、それがイエスが私たちへと与え見させてくださった神の国です。それは私たちがなおも罪深く、悔い改めても罪を犯してしまう、日々悔い改めへ導かれるそんなどうしようもない自分であっても、まさにそんな私たちを日々活かすために、イエスは洗礼を備えてくださり、御言葉と聖餐を日々、毎週聖日に与えてくださってもいるでしょう。パウロはこう言っています。
「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」ローマ6章3〜4節
 このように神は、無に等しい滅びるしかない者のためにこそ、創造の始めにおられ万物を創造をされたイエス・キリストを、再び創造するためにまさに私達の間、飼い葉桶の上に遣わした。そのイエスは罪人と食事をされ、そして世の罪をその身におい十字架で死なれ、しかしそれが贖いの代価となって、私達は無から解放された。罪から解放され、神の前の本当の有へと回復された。イエスは再び無から有を創造するため、しかも日々の洗礼によって、日々、私達をその十字架のおいて私達の罪を水に溺れさせることによって殺し、その日々の死から引き揚げ、復活の新しい命を日々与えてくださる。私達は日々、イエスの創造において新しくされていく。絵空事ではない、その素晴らしい事実の出来事に与っているのです。今日もイエスは私達に新しい創造をしてくださいます。十字架のゆえに「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。平安のうちに今日から始まる新しい一歩一歩を遣わされて行きましょう。



創世記1章1節
1 初めに、神が天と地を創造した。