2020年6月7日


「罪人が救われるために」
使徒の働き 28章1〜10節

1.「救われてから」
 27章までのところでは、ローマへの航海の途中、危険が予測されるというパウロの忠告にも関わらずに船を出した結果、嵐が吹き荒れ、誰もが死をも覚悟せざるを得なくなった状況まで陥ったのでしたが、そんな中、イエスが約束した言葉のゆえに、船の上の誰一人漏れることなく必ず助かるとパウロは励まし続け、そしてその約束の通りに陸地に全員たどり着いたところまでを見てきました。そのようにたどり着いた場所は、マルタと呼ばれる島でした。1節から始まっています。
「こうして救われてから、私たちはここがマルタと呼ばれる島であることを知った(1)」
 まずルカは、あの誰もが死を覚悟したあの嵐に流される航海から、この陸地に皆が無事にたどり着いた出来事を「救い」という言葉で始めています。つまりそれは偶然でもなく運がよかったからでもない、まして彼らが何か一致団結して努力をし嵐を乗り切る能力があったからでもなく、主なる神であるイエス・キリストが、そのパウロに与えた約束の通りに助け、救ってくださったその出来事であった、その信仰がこの「救われてから」には込められています。事実、振り返れば、パウロの忠告より、船員の言葉と、早く着きたいとか、目先の思いや欲を優先させて出帆したことから始まっていました。そしてユーラクロンという暴風が吹き荒れると、彼らはその自然の猛威の前になすすべがありませんでした。ルカは「私たちが助かる最後の望みも今や絶たれようとしていた」(27:19)とその時のことを記していました。おまけに船員達は小舟を下ろすふりをして自分達だけ早く陸について助かろうとし小舟で逃げようとしました。それは逃げようとした船員も船に残される者も助からない可能性の高いことでした。人間はそのように追い詰められると目先の身勝手で他人や将来の結果も顧みないで欲のまま行動してしまう、そのような人間のありのままの性質が船の上にはあったことをその出来事は表してもいました。彼らはこのもう助かる望みのない状況の中で無力であり罪深かったのです。その現実が描かれていました。しかしそのような状況においてさえも、変わるのことのない希望を与え、心一つにし、共に食事をさせ元気づかせたのは、パウロ、ではない、パウロに『恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。』という約束を与え、その信仰を与え、ゆえに希望と確信と強さを与え、パウロを用いたイエスであったでしょう。人の思いや計画は一つもならず、自ら救うことができず絶望するしかなかったのですが、しかしイエスがパウロに約束の言葉と信仰を強め、人々に語らせ、励まさせ、そしてイエスが約束した通りに導きことを行ってくださったからこそ、彼らは陸地に立っているでしょう。ルカの証しの通りにそれは救いの出来事であったのでした。

2.「イエスによって「救われた」私達」
 私達も同じように「救われた」という出来事、事実を、感謝し大事にしましょう。自分で「救った」のではないのです。「救われた」のです。私達も船の上の罪深い一人一人と同じです。罪の嵐が吹き荒れるこの罪の世にあって、私達はその世や人の罪のもたらす不条理や、苦しみや悲しみ、そして自分自身の罪に対する対処に対しても、私達は本当に無力です。今日罪を悔い改めても、明日、同じ罪や別の罪も繰り返してしまう者です。もちろん、行いにおいて正しいかもしれません。しかし心を見られるまことの神の前にあっては、罪がないと言えるものは誰もいません。自分のはかりに従って人をはかり愛したり、そのはかりに合わないものを愛せないものです。赦せないものです。裁き、嫌い、憎むものです。そして神に対して何よりもそうです。クリスチャンになってもです。イエスは言いました。「心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、あなたの神である主を愛せよ」、「同じように隣人を愛せよ」と。しかし私達は、その大事な戒めこそを、日々、できないものです。神よりも自分を愛し、自分を神のように、自分中心に考え、行動し、隣人に接することが多いでしょう。私はそうです。そしてそれを自分ではどうすることもできないでしょう。神の前に私達はどんな弁明も申し開きもできません。装うことも隠すこともできません。そして克服することもできません。私達は日々、繰り返します。むしろ、自分はそんなことはない、自分ではできているというなら、そのように神殿で祈ったパリサイ人は、神の前に正しいとされませんでした。自分の罪深さにも気づかないで忘れてしまうという大きな罪もあるものです。そう私達はそのように肉の性質においては、助かる最後の望みも断たれたような、この嵐の船と同じ、どこまでも罪深い存在なのですが。
 しかしそのような「罪の嵐」に助かる最後の望みも断たれたようなそんな私達を、私達の努力で功績でもない、心が清いからでもない、立派な地位があり、何かを持っているから、何かをしたからでも一切なく、ただその一方的な恵みと約束、言葉の通りの実行である、十字架と復活という人間には計り知れなかったそんなイエスの愛と御わざによってこそ、私達も「救われた」者ではありませんか。ただ一方的恵みであるイエスの十字架と復活のゆえにのみ、私達は罪の嵐から救い出され、「神の前」という全てに勝る「平安の地」に、安心して立たされた、立つことができたと、それこそが私達の証しであり福音ではありませんか。イエスによって「救われた」「救われている」ことを何より感謝しましょう。

3.「裁きの神ではない」
 さて島の人々は親切にしてくれました。雨と寒さの中ではわざわざ火を焚いてもてなしをしてくれました(2)。しかしそこでパウロも気づかない事が起きます。
「パウロがひとかかえの柴をたばねて火にくべると、熱気のために、一匹のまむしがはい出して来て、彼の手に取りついた。島の人々は、この生き物がパウロの手から下がっているのを見て、「この人はきっと人殺しだ。海からはのがれたが、正義の女神はこの人を生かしてはおかないのだ。」と互いに話し合った。しかし、パウロは、その生き物を火の中に振り落として、何の害も受けなかった。」3〜5節
 パウロが火にくべた一かかえの柴の中に、その一匹のマムシが紛れ込んでいたのでしょうか、そのマムシは熱さに耐えきれず火から這い出してきて、パウロの手に取り付きます。毒を持った蛇ですので、これを見た島の人々は言うのです。
「この人はきっと人殺しだ。海からはのがれたが、正義の女神はこの人を生かしてはおかないのだ。」
 と。マムシが手にまとわりつくのは「災い」です。噛まれると今でも死に至る場合もありますから当時はなおの事でしょう。目の当たりにした島の人々は、正義の女神の裁きが降ったのだ、それはこのパウロという人物は何か悪いことをした悪人だからだと見たのでした。囚人たちと一緒にいたわけですから、そう思っても当然ではありますが。ここには、世の中の人間にとって一般的な「神に対して抱く常識」「神観」が見ることができます。悪いことが起きたのは、神の裁きなのだ、その人が悪いことをしたからだと。多くの新興宗教はその点を強調をし恐怖を煽ったりします。そして神の裁きを免れるために行いやお布施を要求したりし、それをすることによって一時の安心や、救いのための長いステップの中の一歩を踏み出したかのように教えるものです。そしてその階段を良い行いで登っていって救いを達成するのだと。人間が誰でも陥りやすい信心だからこそ、そのような布教が横行しそれに引き入れられる人も沢山いるのです。それは私達クリスチャンになっても陥りやすい過ちでもあります。何か災いが起こるのは、あるいは何かうまくいかないのは、それは「神の」裁きのせいなんだ、「神への」行いが足りないからだと。もちろん罪深い人間の行いが必然的に及ぼす結果はあるものです。例えば、嘘をついたり、あるいは表面上を良く繕ったり装っても、それは必ず綻びや矛盾が出るものであり、罪のその刈り取りはするものですし、何より罪にはその人に平安がなくなるという、そういう意味では、必ず結果が伴うものです。それは罪の招く必然であり、その報酬である死と同じです。しかしクリスチャンにとって、災い、日々経験する予期せぬこと、上手くいかないこと、苦しみや悲劇は、キリスト教においては、決して神の最終的な答えとしての「裁き」ではあり得ません。もちろんそこで律法を通して罪を示されることは日々あるでしょう。しかしそれは神の最後の言葉ではありませんし裁きを目的とするものではありません。むしろイエスは、その災い、失敗、上手くいかないこと、予期せぬこと、苦難や悲しみを通しても、そこにこそイエスはいてくださり、そこでこそ語りかけ、そこでこそ救いと平安を宣言し実行してくださる方です。なぜなら十字架はまさに世にとっては裁きであり、刑罰であり、社会にとっては敗北と失敗とほろびですが、そこにこそ、神は御子イエスのその死を通して、サタンへの勝利と罪の赦しという益を私達にもたらてくださったでしょう。まさに創造の初めにアダムとエバを試みた、かかとに噛み付いたその蛇を、火に投げ入れてくださったのはその十字架の出来事ではありませんか。そのためにこそ神は、御子イエスを飼い葉桶の上に置いたでしょう。そしてその十字架の死があるからこそ、私達には世が与える事の出来ない復活のいのちによる新しさと平安があるでしょう。世の信心、神観とは逆なのです。時がよくても悪くても、苦難の中でも、イエスとその福音の平安の言葉は、私達には常に絶えることなくいつまでもあるのです。

4.「神が罪深い人を用いて救いのために」
 では、その島の人の神観に対して、神はそのまむしを用いて何をなさるでしょうか。
「島の人々は、彼が今にも、はれ上がって来るか、または、倒れて急死するだろうと待っていた。しかし、いくら待っても、彼に少しも変わった様子が見えないので、彼らは考えを変えて、「この人は神さまだ。」と言いだした。」6節
 島の人々はその神観、信心に従って、パウロに正義の女神の裁きによって死ぬだろうと思っていました。しかしパウロはすでにそのマムシを火の中に振り落としています。そして噛まれることもなく害もありませんでした。人々が何が起こるか待っても全く何も起きなかったのでした。すると今度は彼らは全く逆のことを言います。
「この人は神さまだ」
と。もちろんパウロは神ではありません。しかし人間の信心のもう一つの間違った特徴は、肉の目の前に、並外れたことをした人間を神であるかのように見ることです。ここでは島の人々は「この人は神だ」と断言しています。しかし誰にもはっきりしている事実は人間は不完全な存在だということです。そして罪深い存在です。国を統治する大統領や総理大臣も実に罪深いです。自分や自分の周辺の利益やプライドや名誉を守るために行動したり嘘をついたり繕ったり装ったりするものです。そしてそれを守るためには国の益や正義などをかざして武力や暴力さえ用いるでしょう。人間や国家の歴史というのはそのような事の繰り返しです。しかしそれは人間だからこそ繰り返される事です。人間は罪人だからです。そして人間はどんなに優れた人でも決して神にはなることはできないものですし決して神ではあり得ません。しかし目に見える優秀さ、カリスマ性、上手な言葉や、力やその他の能力や性質に、人は神を見ようとして「神とする」のが人間の堕落の影響を受けた信心の常なのです。しかしパウロは14章でありました。ルステラで語っていた時です。パウロが行った癒しに対して、群衆は「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ。」と言い(14:11)。 バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人であったのでパウロをヘルメスと呼んだでしょう(12)。しかしそれに対してパウロとバルナバははっきりと言います。
「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るようにs
福音を宣べ伝えている者たちです」(14:15)
 このパウロもそこに働くイエスもここでも変わりません。マムシの出来事を通して、人々はパウロを神だと言いました。しかしパウロが神とされることが神がその出来事を通して示すことではありません。この後にこう続いています。その近くに島の首長が住んでいて神ともされたパウロですから、その首長の家でパウロらはもてなされるのですが、首長の父が病気に苦しんでいました。そこで28節途中からですが、
「そこでパウロは、その人のもとに行き、祈ってから、彼の上に手を置いて直してやった」
 パウロはその病人のところへと導かれ、そして、大事な点は、
「祈ってから、彼の上に手を置いて直してやった 」
とあることです。パウロは祈りました。それはイエスの名で神に祈り求めたということです。そしてその病人は癒されるのですが、それはパウロに直す力があったのでもなければ、パウロが直したのでもありません。祈りの先にいた主なる神、イエスがなさったことです。パウロはそのように「祈り」によって、自分は神ではない、自分の背後にいる神を指し示したと言えるでしょう。それによってもてなしの食事の席もそれまでの「神とされた人間との偽りの神聖な宴」とは違い、パウロの福音の証しの席にもなったことでしょう。なぜならパウロの思いは、いつでも自分は
「あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たち」
であったからです。そのことからさらに多くの人がやってきてそこに癒しが訪れます。そしてパウロと島の人々とは、人間が祭り上げる偽りの神と人との関係ではなく、まことの救い主のもとにある正しい良い人間関係ができ、新たなる船出への準備にもなりました(9〜10)。全ては神の計画の元に、一匹のマムシさえも神は用いられ、裁くためではない救うためにこそ、イエスは働かれているのです。そのイエスは私たちと共にあり、今日も福音を罪に悔いる私たちに語りかけます。あなたの罪は赦されています。安心して行きなさいと。安心して行きましょう。