2019年9月1日


「パウロが口を開こうとすると」
使徒の働き 18章9〜17節

1.「はじめに」
 コリントでパウロは安息日に会堂に行き「イエスはキリストである」と伝えていました。パウロは一生懸命でしたが、熱心のあまりなんとかイエスはキリストであるとユダヤ人たちを説き伏せようとしました。しかしそれに対してユダヤ人達がパウロの語る福音に反抗し暴言を吐いて拒絶しました。それにに対して、パウロは着物を振り払い怒りに任せ感情的な対応してしまいました。「あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のほうに行く」と(6節)。パウロは失望にくれ語ることもできず黙ってしまったのですが、しかしそんな中パウロを主イエスは見捨てず語りかけました。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」9〜10節と。イエスはパウロがユダヤ人の反抗と暴言、それに対して感情的に暴言をしてしまったことを責めず、その失敗で語ることもできなくなっていたパウロを優しく励ましたのでした。

2.「総督に訴えるユダヤ人」
 そのようにイエスに再び立たせてもらうことによって、感情のあまり退けたはずのあの会堂でパウロは「一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた」のでした。しかしそれでも状況的にはいつでも好転したわけでもありませんでした。特にユダヤ人達の拒絶と頑なさはなおも続いたのでした。12節からです。
「ところが、ガリオがアカヤの地方総督であったとき、ユダヤ人たちはこぞってパウロに反抗し、彼を法廷に引いて行って、「この人は、律法にそむいて神を拝むことを、人々に説き勧めています。」と訴えた。」12節
 パウロは「イエスはキリストである」と十字架の福音をどこまでも語り続けました。しかも彼自身の失敗と、そしてそこに働いていたイエスの恵みと励ましを通してこそ、当初の「承服させる」という「律法的な熱心さ」から解放され、律法的にではなく福音を動機にして福音を語り続けます。しかしパウロはそうであっても、周りの、「こうでなければ」という律法や人の行いに救いや平安の根拠や拠り所を置く人々、そのように育ってきた人、生きてきた人というのはその拠り所から自由になることをむしろ恐れ守ろうとし頑なものです。つまりそのようにパウロから律法からの解放されるはずの福音を聞いても、律法や人の行いで平安や満足を得ていた人々は、福音は平安や心地良いどころかその逆の反応を示し、不安や不満、怒りや重荷と感じて抵抗するのです。それは社会的には正しく立派で、律法を前に「自分は正しい、そんなに悪くない、これまでしっかり従ってきた」と自負したい性格のユダヤ人には尚のことでした。なぜなら彼らの正しさや救いや前進や成長の拠り所は、どこまでも「行い」であり、「行いによる満足、平安」であったのですから、イエスが教え、またパウロが教えるような一方的な罪の赦しが、社会では受け入れがたい罪人にまでも無条件に及ぶび、その罪の赦しという恵みから義も聖も始まるというのは、卑怯、怠惰、ズルく見えたりするものです。何より彼ら自身の根底には「自分は正しい」という思いがあるわけですから、福音を知るために必ず通る「あなたは神の前に正しくない」と認める人々にとっては福音はつまづきの石であり、受け入れられないことであったのでした。彼らは、この一年半の間、パウロが根気よく語った福音に対し一年半後もなおも反抗するのです。

3.「「神の前に」ではなく、総督に」
 彼らは訴えます。「パウロは律法に背いて神を拝むことを人々に説き勧めています」と。まず彼らの基準がどこまでも律法に縛られていることがわかります。彼らは表向きはとても敬虔でした。しかし彼らが本当に律法に従って行動しようとしているかどうかは疑問が残ることがここには現れています。彼らはそれを「ローマの総督に」訴えてるからです。どういうことでしょうか?同じユダヤ人でも、17章で見てきたベレヤのユダヤ人達は、福音のみ言葉を聞き、それについて、本当にそのように言っているのか聖書から調べたとありました(17:11)。そしてその福音の知らせについて、彼らベレヤのユダヤ人達は感情や思い込みや、決めつけや、自分たちの「こうあるべき」とか、あるいは力や権力を用いて応答したのではなく、どこまでも神の約束や教えはなんと教えているかから出発して、パウロの語る福音に応答し、彼らは信じました。それが真のみ言葉に対する熱心さであり敬虔さでもありました。実は、福音は神からのものであるのですから、生まれながらに律法的で罪深く自己中心的な考え方をする罪人である私たち人間が、その天からの福音を聞いて、疑問が起こるのは当然ですし、反対したくなるものでもあります。しかし聖書、神に従おうという信仰が与えられている人にとって、福音を受け入れるにせよ反対するにせよ、どこまでも聖書に聞き、聖書に求め、聖書から疑問を投げかけ、応答するなら、ユダヤ人にせよクリスチャンにせよ健全なことです。しかしコリントの反抗するユダヤ人達は17章で見てきたテサロニケなどのクリスチャン達と全く同じです。彼らは「パウロは「律法に背いて神を拝む」ことを教える」と訴えますが、しかし彼らは、神でも聖書にでもなく、「ローマの総督に」訴えています。つまり世の権力です。そして律法、聖書と言っておきながら、聖書から調べ聖書から律法がどう教えているのか、聖書からの根拠はどうなのかという反応や反対も全くないです。むしろ彼らは人に頼ります。総督という権力による裁きです。あるいは「人々」とか「世を惑わす」という言葉もありますが、つまり「周りがこう言っている」からなど、周りの人数に正当性の根拠も置こうとします。テサロニケのユダヤ人達も「群衆を扇動して」ともありました。まだイエスに反対したパリサイ人達の方が、初めは「律法はこう言っているではないか」と反対していましたね。しかし彼らも十字架の直前は、やはり人間的な根拠と偽りの証言で結局は、ローマの総督へ告発し始めました。テサロニケ、そしてこのコリントのユダヤ人も結局はそうです。人の権力と世の法律で反抗し、その正当性は、「人々が」と、こんなに自分たちの味方がいる、こんなにも反発しているものがいる、人々は迷惑している、という世の根拠、数の正当性で訴えるのです。しかしそこに聖書から、彼らのいう律法の正しい解釈や論拠からの応答は全くありませんでした。結局、律法、聖書を解いておきながら、裁きをローマの法律や権力、つまり世の力に求めてしまっているのが彼らの反発の特徴であり矛盾でした。

4.「冷静に、そして口を開こうとすると」
 それに対して一年半前は怒りと感情で応答したパウロですが今回は冷静です。パウロは法廷に引かれていくことに反抗していません。連れていかれるままです。そして14節ですが、
「パウロが口を開こうとすると」
 彼はそこで口を開こうとします。彼はそこで初めて弁明しようとしたのでしょう。彼は何も律法に反すること、律法に背いて神を拝むようなことは教えていなかったのですから。むしろ律法が指し示し約束してきたイエス・キリスト。律法の成就であり、律法では決して救われないことから解放を約束するイエス・キリストの十字架と復活を伝えていただけでした。いやそれこそ聖書がアブラハムにもモーセにもダビデにも約束していたことでした。彼には弁明することがありました。しかも彼らユダヤ人達とは違い、いつものように「聖書から」です。しかし口を開こうとしたその時です。こう続いています。14節続きですが
「ガリオはユダヤ人に向かってこう言った。「ユダヤ人の諸君。不正事件や悪質な犯罪のことであれば、私は当然、あなたがたの訴えを取り上げもしようが、あなたがたの、ことばや名称や律法に関する問題であるなら、自分たちで始末をつけるのがよかろう。私はそのようなことの裁判官にはなりたくない。」
 パウロは口を開こうとするは総督ガリオによって遮られます。このガリオ、この地域を治めるローマの総督であるわけですが、彼の人柄はわかりませんが、彼は職務的には非常に懸命な対応をしています。犯罪についてのことなら当然、安全に関わることゆえに取り上げるが、あなた方の訴えはあなた方の聖書のことではないか。律法のことでしょう?まさに、律法の問題であるなら律法で、聖書で解決すればいいものを、ローマの総督に、つまりローマの法で訴えるというパウロへの矛盾した告発や言いがかりを、ガリオは非常に客観的にそして適切に退けています。パウロがそこで反論する前に、ローマ人の総督からもっともなことを帰されたわけでした。こうして法廷は閉廷し訴えたユダヤ人達もパウロも法廷から追い出されてしまいました。ここは非常に面白いところです。パウロは結局、この理不尽な訴えから、パウロ自身は何ら訴え求めなくとも、不思議な方法で、つまりユダヤ人が用いようとした世の法律と権力を通して助けられ解放されたという皮肉です。何よりここでの結果は、やはり福音から出たことではない、律法的な動機、人間的な感情から出たことは人間的な結論に終わったということでした。そのような彼らの人間的な思惑、計画、思い描いたことが、その通りにならなかったことに、欲求不満を覚えた彼らは、満たされない思いを、やはり自分で果たします。律法から出たことは、結局、拠り所が不安定な自分でしかないのですから、平安を知らず、揺らぐ拠り所へ結局は求め、委寝ることも、委ねる先も知りません。彼らは「そこで、みなの者は、会堂管理者ソステネを捕え、法廷の前で打ちたたいた。ガリオは、そのようなことは少しも気にしなかった。」17節。結局は最後まで力の論理でした。法廷の前で打ちたたいたというところには、ガリオへの対応への不満と当てこすりもあるわけですが、当のガリオはなんとも思いませんでした。ここにも律法主義、人を拠り所としたことの結末が現れています。そしてこのことはパウロから見て教えらえる主の恵みもあります。

5.「口を閉ざされるパウロ」
「恐れないで語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。誰もあなたを襲って危害を加える者はない。この町にはわたしの民が沢山いるから。」9〜10節
 と。「黙ってはいけない」と。そして「わたしがあなたとともにいるのだ」とも。しかし、このガリオの法廷で、まさにパウロは「口を開いて」「語ろう」としましたが、そのパウロの「開こうとした口」はガリオの言葉の遮りによって閉ざされています。そこで語る必要があれば主は語らせたことでしょう。しかしまさにそこに主はともにいたことがわかるのです。「黙ってはいけない。語り続けよ」と。イエスは確かに言いました。しかしそれは決して人の肩にかかっている律法的な命令ではありません。私たちは「いけない」「?しなさい」とあると律法的に捉えてしまいますが、しかしこのイエスの勧めは決して律法ではなく、むしろともにいてくださるイエスの守りと助けのもとでの恵みによって、イエスから支えと力を与えられ導かれる行為であることがここにわかるのです。口を開こうとしたのを、ともにいてくださるイエスはガリオを用いて閉ざしたからです。語るのにも時があり、黙するにも時があるのです。イエスも「時」を見ていました。特にヨハネによる福音書では繰り返し「わたしの時はまだ来ていない」と絶えずご自分の「時」を見ています。時を見て、黙ったり、退いたりもしました。そのイエスがここにはいます。パウロの口を支配していたのは、パウロ自身ではない。語りなさい。黙ってはいけない。それはイエスの主導権、イエスの計画、イエスの守りと助けと導きのうちに、イエスの支配によって用いられていくためのイエスの約束でもあったということです。そしてそのことは、確かにイエスはそこにともにおられるということではありませんか。そして、もう一つの約束も全て成就しています。

6.「イエスは「わたしの民」をもちいて」
「誰もあなたを襲って危害を加える者はない。この町にはわたしの民が沢山いるから。」
 一年半腰を据えてイエスの十字架の福音を語り続けてきても、どこまでも反発し、聖書から応答するのではなく人間的な思いと感情と策略で陥れようとしたユダヤ人達、告発され、ガリオが鞭打ちを命じれば鞭打たれたことでしょう。会堂管理者ソステネがうち叩かれましたが、それはパウロになることもあり得ました。パウロは約束とおり、危害を加えられる事はありませんでした。イエスは事実、パウロをこの一年半、そしてこの後シリアへ去る時までも守ってくださったのです。約束の通り。そして「この町には、わたしの民がたくさんいるから」というのも、実に面白い言葉です。それは確かに、私たちから見れば「わたしの民」とは、「福音によって信仰が与えられ救われる民」という見方もできその通りでしょう。しかしそれは同時に、反対するユダヤ人も神の民でもありますから「わたしの民」かもしれないし、会堂管理者ソステネも神の民です。そして異邦人もローマ人も救われるべきであるなら、総督ガリオも決して救いから除外されていない「わたしの民」です。私たちは「誰が救われる救われない」という尺度で物事を考えてしまうために、「わたしの民」=救われる人」、「わたしの民ではない人々=救われない」と、いう方程式を当てはめてしまいやすいですが、しかし私たちは「誰が救われる、救われない」「誰が神の民であり、誰が神の選びであり、誰が神の民でない、選ばれていない」など、断言できる人は誰もいません。それは私たちが天国に行く時まで答えはわかりません。ですから「わたしの民」は誰を指すかははっきりと言い切ることができないのです。そしてその「わたしの民」は「わたしの民」の「ため」だけではなく、「わたしの民」を用いて、パウロを助けるとも考えられます。私たちがここで教えられる恵みは、神はそのご計画を、私たちにはわからない「わたしの民」に置いていたし、そしてそれはまだクリスチャンではない総督や、反対するユダヤ人達などを用いて事を行われ、み言葉を実現されるということです。
 イエスの約束や計画、「わたしの民」に置いている計画は、私たちの思いをはるかに超えていますが、それは確かであるし、そこには全てが益とされるという希望も溢れています。疑うなら限りなく疑うことができますが、私たちに与えられている賜物は疑いでも律法でも、裁きや、恐れや不安の霊ではなく、信仰であり、イエスが与えると言われた平安です。本当の信仰が与えられているなら平安はあるのですから、その与えられている安心を持ってイエスに委ねより頼み、信じて行きましょう。イエスにあってこそ、イエスが与えると言われ世が与えることのできない真の平安と希望は尽きることがありません。そしてその平安と希望こそ、私たちが遣わされて行くときの、真の動機となり力となり、イエスは私たちを用いてくださるのです。