2018年8月19日


「主が私を救い出してくださった」
使徒の働き 12章4〜11節

1.「はじめに」
 「使徒の働き」というところは、使徒たちによって教会が始まり、イエス・キリストの福音がどのように広がっていったのかということが記録されています。しかし、その広がりには、迫害が絶えずことがありませんでした。この12章でも、ヘロデ・アグリッパというユダヤ地方の王によって、使徒の主要なメンバーであって、福音の説教者であった、ヤコブという人が殺されるところから始まります。もちろんヤコブや教会が何か王に悪いことをしたからではありません。王は、ユダヤ人たちの人気を得るために、ユダヤ人たちが嫌って迫害しているキリスト教会に目をつけて、ヤコブはその中の主要人物だということで殺したのでした。そしてそのヤコブを殺したことが、その期待通り、ユダヤ人たちの気に入ったのをみて、王は今度は使徒たちのリーダーであるペテロを逮捕してしまったのでした。そこから話が始まります。まずその逮捕ですが、4節はこう始まっています。

2.「四人一組の兵士四組の監視」
 「ヘロデはペテロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。それは、過越お祭りの後に、民の前に引き出す考えであったからである。こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために熱心に祈った。」4?5節
ペテロは逮捕されます。それは王は、ペテロをユダヤ人の民衆に引き出すためでした。ヤコブの殺人がユダヤ人たちの気に入ったのを見た王ですから、今度はペテロを公衆の面前に引き出して、痛めつけるのか、同じように処刑するのかわかりませんが、王にとって、ペテロをこれからどう扱うかは、自分の人気のためにに大きく関わることであったのでした。ですからそのガードは非常に頑丈です。ただ牢獄に入れるわけではありません。そこに四人一組の兵士四組に引き渡して監視させたのでした。それは24時間、四人の兵士の監視の元におかれ、決して逃げられない状況です。さらには、6節にはこうあります。
「ところでヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖に繋がれて二人の兵士の間で寝ており、戸口には番兵たちが牢を監視していた。」6節
 牢の中でも、ペテロは鉄の鎖に繋がれ、さらに彼を挟むように隣では二人の兵士が寝ているのです。つまり、ペテロは決して逃げられない絶体絶命の状況だということです。
 しかしそのような状況にあって教会の人たちはペテロのために何をしたのかというと
「教会は彼のために熱心に祈った」
 のでした。しかしその祈りは「最後の神頼み」のような「なすすべなく」の祈りではありませんでした。彼らはそのような絶体絶命の状況でありながら、それでも「キリストこそ」と信じて祈った祈りであったのでした。ここでイエスはその祈りに答えてくださるのです。ペテロが牢の中、鎖に繋がれ、二人の兵士に挟まれ眠っている時です。7節

3.「御使いの導くままに」
「すると突然、主の御使いが現れ、光が牢を照らした。御使いはペテロの脇腹を叩いて起こし、「急いで立ち上がりなさい」と言った。すると鎖が彼の手から落ちた。そして御使いが、「帯を締めて、靴を履きなさい。」というので、彼はその通りにした。すると、「上着を着て、私についてきなさい」と言った。」7節
 ペテロのもとに主のみ使いが現れるのです。「主のみ使い」というのは、神の言葉を伝えるために神から遣わされる使者です。聖書では、イエスの誕生の時に、両親であるヨセフとマリヤに、イエスの誕生のことを伝えるために現れていますし、イエスが荒野で試みを受ける時も、み使いが支えていたことが書かれています。そのように神の言葉を伝えたり、神の計画に従って「助け」をもたらすために遣わされるのです。その御使いがペテロに現れ、脇腹を叩いて起こします。「急いで立ち上がりなさい」と。その時、彼の手を繋いでいた鎖が彼の手から落ちるのです。「立ち上がり、服を着て靴を履き、私について来なさい」というのでした。ペテロ自らでは決して外せない頑丈な鉄の鎖です。それが、突然外れたということも驚くべきことですが、さらにペテロの横には2人の兵士が寝ています。その2人が全く気づいていないということは、2人は起きなかったということです。しかもそのように4人一組の兵士が監視してる中のはずなのに御使はその牢さえも抜けさせます。9節
「そこで、外に出て、御使いについて行った。」9節
 と。しかし当のペテロはそれが現実だとは気づいていません。続けてこうあります。
「彼には、御使いのしている事が現実だとはわからず、幻を見ているのだと思われた。」
 ペテロには夢の中のことと思われたのです。ですから彼さえもこのように御使いが助けにくるなど、思いも予想もしていなかった事が起こっていた、そんな中で彼は連れ出されただ「導かれて行く」のです。10節こう続いています。
「彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。そこで、彼らは外に出て、ある通りを進んで行くと、み使いは、たちまち彼を離れた。」10節
 ここにもいかに警備が厳重であったかわかりますし、ペテロが自ら脱出することだけでなく、また他の仲間が彼を助け出すこともいかに不可能であったかわかります。そのままでは、ペテロはもう民の前に引き出されるだけであったのでした。権力とその力の前にはもはやなすすべは何もなかったのです。誰よりペテロもその現実がよくわかっていたでしょうし、そしてヤコブが殺された直後ですから、彼はこの時、イエスの御心であるならヤコブのように殉教するであろうことさえも覚悟したのかもしれません。しかし御使いは、そのペテロの思い、そして他の使徒たちやクリスチャン達、更には、ヘロデ王やその兵士たちの思いや計画や予測や警戒さえも超えて働きます。二つの衛所にも当然、門番がいて頑丈な鉄の門がありました。しかしその最初の衛所も次の衛所もことごとく通過して行きます。そして最後の鉄の門も閉じられてましたが、その門はひとりで開き、ペテロはみ使いに導かれるまままに、ヘロデがペテロを頑丈に閉じこめていたその場所から脱出させられるのです。御使いが、離れて行った時、ペテロはそこでようやく現実に気づいて言うのです。11節

4.「祈りは必ず届いている」
「そのとき、ペテロは我に返って言った。「いまは、確かにわかった。主はみ使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人達が待ち構えていた全ての災いから、私を救い出してくださったのだ。」11節
 ペテロはこの時にわかるのです。「主が助けてくださったのだ」と。ヘロデの理不尽な権力から。何重もの頑丈な拘束、監視、警備からです。
 みなさん、この所が私たちに伝えているメッセージはなんでしょう。それは何より祈りは必ずイエス様に届いているということです。
A, 「「私たちが何か立派なことをするから聞かれる」ではない。」
 しかし「祈りが届く」という時、誤解してはいけないのは、それは「私たちがまず私たちの方で具体的に何か計画、神に約束をして、その約束の通りに、私たちがまず神のためにするから、あなたもこれをしてください」と祈るから届く、聞かれる、答えられる、ということではないということです。あるいは、その祈りが、神の目にかなって100パーセント完全な祈りであったから、そうでなければ聞かれないということでもないということです。もちろん、先週、述べた通り、彼らの祈りは「信仰による「キリストこそ」という希望の祈り」ではありました。しかしその時その信仰も祈りも、心配や迷い、葛藤の中での祈りであったのはいうまでもないことです。なぜなら不完全な人間の祈りなのですから。
B, 「「神の前に完全な祈りなどない」と認めること」」
 みなさん、今日のメッセージの大事な点ですが、「神の前に「私たちから」の完全な祈りなど決してない」ことを知ることは大事なことです。それがたとえ「福音による希望」に促されての祈りであったとしても、それでも私たちはいつでも不完全であり、祈りも決して純粋なものではありません。ですから「100パーセント清く純粋に祈らなければいけない、そうでないと祈りは聞かれない」と、教える教会もありますし、私たちはそう考えやすいかもしれない。しかしそれは違います。確かに、前回触れたように、祈りは「しなければいけない」という律法によるものが祈りでは決してなく、福音によって促され、希望を持って祈るものが本当の祈りです。しかしそれが本当の祈りだからと、それでも「そのような祈りでなければ、そのように祈るのでなければ、聞かれない」とするなら、それもまた既にもう「私たちがしなければいけない事」つまり、律法になってしまっています。祈りは私たちへの賜物であり恵みです。誰でも祈る事ができます。しかし何度も言いますが、その祈りは私たちにおいてはいつでも純粋ではありません。私たちから見ても、神から見ても、私たち人間が100%聖いお祈りをするなど、私たちには不可能です。しかしそのような祈りであっても、それでもよいと、祈るように導いてくださるからこそ、「祈りはどこまでも恵み」であるという事です。むしろそのような不完全な祈りであっても、その不完全さを認め、イエスの名によって、つまり「イエス様」と呼びかかける祈る祈りは、どんな罪深い者の不十分な祈りであっても、誰が祈る祈りであっても、イエスは必ず聞いてくださる。それが「祈りは恵み」であり、祈りの素晴らしさに他なりません。事実、それはイエスがおしゃってくださることです。
C,「罪人の正直な祈りこそ」
 ルカによる福音書18章にパリサイ人の祈りと、取税人の祈りという場面があります。パリサイ人と取税人が神殿に祈りに行きました。パリサイ人は、社会でも認められた行いにおいても祈りにおいても立派な人たちです。ですからそのパリサイ人は、神殿で、自分はいつでもなすべきことを立派に完全にしており、むしろ隣の取税人のようでないことを感謝しますという祈りをしました。事実、彼らは自他共に認める立派な行いを日頃からしていましたし、嘘ではありませんから、それは人から見るなら、立派な行いを伴った立派な祈りです。一方で、その取税人は罪人と呼ばれ社会から忌み嫌われている人です。しかしその彼の祈りはこういう祈りでした。
「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人のわたしを憐れんでください。』」ルカ18章13節
 行いも悪く、祈りの神殿にあっても、天に目さえ向けません。自分の胸を叩くだけです。そして、自分でこれこれのことをするからという条件も出していません。ただ自分の苦しみ、自分がどれだけ罪深いかを神の前に告白し、ただ憐れんでください、と言っているだけです。人の目からみるなら、なんと受け入れがたい、そしてみっともない祈りです。不完全な、立派ではない祈りです。しかしイエスは、この罪深い取税人が神の前に正しいと認められて帰ったと言いました。もちろん、どちらの祈りもイエスは聞いています。しかし、イエスの前にあっては、私たちの側で、神に対して、立派さを主張したり装ったりすることではなく、人の目にはどんなにみっともなく、不完全な言葉や心であっても、むしろ罪深いまま、不完全なままを認め、神の前に助けを求めることこそ、神は喜んで聞かれることを伝えています。祈りに立派も完全もありません。立派な祈りでなければ聞かれないということもなければ、日頃、良い行いを報告できるようなものがなければ祈ることができないということもありません。完全な自分もなければ、完全な祈りも私たちにはありません。イエスは、不十分でも、自分の罪深さを日々耐えず気づかされても、葛藤や疑いのある中での祈りであっても、イエスはそれでも、そんな私達でも、私たちを受け入れ、愛してくださり、だからこそ、そのままで「祈りなさい」と言ってくださるように、その通りに、葛藤の中でも祈るなら、イエスは必ず聞いてくださるのです。

5.「イエスは答えてくださる」
 そして実際イエスは答えてくださるのです。しかもそれは私たちの思いを超えてです。ペテロも、他のクリスチャンたちも、ヘロデや兵士たちでさえ、そんなことは全く予想していませんでした。しかしイエスは、試練の中にあっても、人の思いを超えて働かれ、必ず脱出の道を備えてくださるのです。そしてそれは愛するものために働いて全てを益とするためです。1人の使徒、パウロは実にそのことをこう証ししています。試練の中にあっても必ず脱出の道があることについてはこうです。
「あなた方の会った試練は皆人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなた方を、耐えらえないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ耐えられるように、試練とともに脱出の道をも備えてくださいます。」第一コリント10章13節
 そしてその試練にあっても、何があっても、神は全てのことに働いて益としてくださることをこう言っています。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神が全てのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ローマ8章28節
 ペテロが牢から解放されたように劇的ではないかもしれません。私たちの期待するようではないかもしれません。しかしイエスは私たちのどんな祈りでも「イエスの名によって」祈る祈りを必ず聞いてくださり、そしてイエスは私たちの思いをはるかに超えて、全てのことに働いて益としてくださるのです。これはすべての人への約束です。誰でも祈ることができます。不完全でも、どんな私たちであっても。ぜひ祈って行きましょう。