2017年10月15日


「主からの召しに生かされる」
使徒の働き 6章1〜7節

1.「増えるにつれて」
「そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシャ語を使うユダヤ人たちが、へブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。」1節
 これまで見てきたように、エルサレムの教会には「弟子たち」が増えてきます。しかし、ユダヤ人クリスチャンには、イスラエルで生まれ育ったユダヤ人と、キプロス生まれのユダヤ人バルナバのように地中海沿岸のギリシャ文化の国々で生まれたユダヤ人もいました。そのような中、エルサレム教会に一つの問題が起こります。ギリシャ語を使うユダヤ人たちが、へブル語を使うユダヤ人たちに苦情を言ったのでした。ギリシャ語を話すユダヤ人やもめたちが、毎日の配給でなおざりにされたというのです。エルサレム教会では、自分の財産を教会に献げ、共有財産の元での共同生活をするクリスチャンたちがいましたので、食事は配給であったわけですが、その「配給の仕方」で問題が起こったのでした。当時のこのエルサレム教会は、急激にクリスチャンが増加した教会でした。共同生活の人数も急に増えたことでしょう。しかし教会の礼拝や説教だけでなく、そのような食事の配給なども当初は12人の使徒たちだけに負っているところが多かったのでした。しかし12人では当然、全てを十分にすることができないのです。そのような背景で、このような問題が起こってきたのでした。

2.「問題は起こる」
 まず「教会は問題が全く起きない」「起きてはダメだ」ということではありません。今もそうであるように、教会を構成するのは、どこまでも不完全な、なおかつ罪深い人間の集まりでもあります。使徒たちであっても、神でも超人や聖人でもありませんから、当然、不完全な存在ですし、できることにもそれぞれ限界があります。対応しきれないこともあるのです。ですから「教会は、間違いも罪も何も起きない、起きてはいけない、いつでも理想通りの完璧な姿であるとか、そうでなければいけない」ということでは決してないのです。問題は絶えず起きるのです。
 ですから、使徒たちはここで問題が起こったことを問題としてはいないのです。むしろ、使徒たちはその問題を受け止め対処するのですが、大事な点は、一体何に注意をしているのかということです。続けて見ていくとわかるのです。

3.「問題が起こった時に何が大事か」
「そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。」
 それまで使徒たちが大勢の人数への配給のことをリードし従事していることによって、十分に配慮が行き届かない状況になったことは確かに改善すべきことです。しかし、教会において彼らが中心に考えていることは一体なんでしょうか。それはただその「運営の改善や解決」だけではなく、むしろ「神の召し」と、「神の言葉の働き」のことを中心に考えているのがこの言葉からわかるでしょう。
「私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。」
 これは「そのようなやもめの問題がどうでもいい」ということを言っているでは決してないことは、この後を見ていくとわかります。そのことが起きたことと同時に、もう一つの大事な問題が起きていたわけです。それは「神の言葉のことが後回しになっていた」ということでした。
 共同生活はもちろん聖霊の召しによる一つの「愛の現れ」でした。やもめや外国出身のユダヤ人達への配慮も教会の大事な愛の働きです。しかしそのような目に見える「愛の働き」が進んでいって、上向きに上昇して行っているように見えるときに、逆に「基本的なこと」やあまり目立なかったり派手ではなかったり、見た目には力がないように見えることや見えないことがむしろ忘れられていく、目に見える結果や現象に流されていくということは、人間社会にはよくあることではないでしょうか。
 使徒達はこの問題を通して、一つの大事なことに気付かされるのです。それは教会の働きの中心です。いや教会の働きの中心であるだけでなく、クリスチャン生活、クリスチャンの良い行い、まさに愛の行いの原動力となり動機、力となる大事なものです。それは、み言葉、福音でした。

4.「愛のわざのためにこそ」
 もちろん、教会にとって、良い行い、愛のわざは大事でないなんてことは決してありません。イエスは、「互いに愛しないなさい」と言っているのですから。よく「ルターは信仰義認を強調したから良い行いや愛のわざを軽んじている」と、ルーテル教会ではない教会は軽々しく批判をしますが、それは大きな間違いです。ルターの言葉をよく読めばそんなことは全く言っていないことはわかります。むしろ彼は強調さえしています。そしてとても大事なことを言っています。その私たちクリスチャンの良い行いや愛のわざは、それは信仰によるものであり、私たちの力や努力による律法から出るものではないと。つまり律法によって強いられてではない、どこまでもそれは福音から、罪赦され、救われた喜び、救われた信仰から出てくる自由な行いが、本当の良い行い、本当の愛のわざであり、信仰によってそれをすべきであると教えたのが、ルターの聖書から、福音からの宗教改革的な訴えであったのでした。それはイエスが、木であるイエスに枝が繋がっていることによって木が良い実を結ぶ(ヨハネ15章)と教えたことにも一致していますし、パウロが「信仰に始まり信仰に進ませる」(ローマ1:17)と言い「良い行いをも備えておられる」(エペソ2:10)と言っていることにもならっています。何よりイエス様は「わたしがあなた方がを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言っているように、イエスの十字架の愛を受けなければ、イエスが愛したように愛し合うことなどできないことを示しているでしょう。
 みなさん、聖書の教えは、教会の愛のわざは「イエスが愛したように」です。これは大事な言葉です。人間的な愛を示していません。それが十字架を示しているからです。それは深いものです。「罵られてもののしり返さず」です。「報い」を求めません。ですからイエスは山上の説教では、「良い行い」を教えていますが、それは「右手のしたことを左手に知られないように」とまで言っています。誰からも見られない評価されないところで善を、奉仕を、祈りを、献金を行いなさいと言っているのです。そのように「本当の良い行い、愛」をイエスは教えています。まさにそれをイエスは十字架で行ったのですが、その「イエスが愛したように、あなた方は愛し合いなさい」なのです。
 みなさん、できますか?人間の力でイエスがしたようにできますか?見返りを求めないで、できますか?罵られても罵った相手のために死ねますか?そうです。できないんです。人間の力では。しかしイエスは教会の行う愛には「わたしがあなた方を愛したよに、互いに愛し合いなさい」とはっきりと言っているでしょう。それを求めているのです。それゆえに、うわべだけの律法的な愛へと前進して行った他の宗教改革者とは違い、真の愛、真の良い行いこそ強調したルターは全く批判に値しません。むしろ聖書に誠実で厳しいです。しかしそのイエスが求めている愛は、私たちの力では実を結べないのです。矛盾したことを言っているのでしょうか?そうではありません。真の良い行い、愛は単なる律法ではないのです。それはイエスの福音から出るもの、イエスが福音を語ることによって私たちに聖霊の働きによって実を結んでいくださるものなのです。つまり、真の良い行いや愛は、み言葉、福音にかかっているわけです。

5.「福音によって」
 使徒達は、真っ先にそのことに気づいています。自分たちだけで追いきれないほどの仕事量にもなっていたし、一方で外国帰りのユダヤ人の中では、自分たちが虐げられている、おろそかにされている、なおざりにされていると感じて、苦情を言うほどになっていると言うことは、教会内の人々にそのような不満や不協和音や非難の仕合があったこと、不信感があったことを意味しています。それは人間の社会ではよくあること、当たり前に起こることです。しかしここで使徒達は、そのような人々をただ律法的に裁断することあしていません。むしろ、まさにみ言葉の働きが後回しになって、おそろかになっていることにこそ問題の核心を見ているのです。教会の中心は、どこまでもみ言葉、福音です。クリスチャンは律法ではなく福音によって救われ、律法によってではなく福音によって生き、歩み、行動し、愛するものです。福音が語られること、説教はだからこそ、霊の糧と言われるのです。福音に聞くからこそ、本当の良い行い、愛がそこから始まっていくのです。その福音を語ることに専念することこそ、この問題の一つの大事な解決手段であることを、使徒達は示しているのです。4節でこう言っているのはまさにそのことなのです。
「そして私たちは、もっぱら祈りとみ言葉の奉仕に励むことにします。」
 と。これは福音の力こそを信じるがゆえの言葉なのです。決して他のことはどうでもいいと言うことではありません。そしてこれはまさに彼らの「召し」でもあるからです。イエスは、福音を伝えるように、キリストの十字架と復活の証人となるように使徒達を遣わしています。彼らの「召し」はそこにありました。もちろん配給も大事な教会の仕事ではありますが、使徒達は、礼拝で福音を説教し宣教し、「これを行いなさい」とあったように聖餐式を行うことが、イエスから「召命」でした。ですから福音を語ることへのこのような回帰は、その「「召し」への立ち返り」であることを示してもいるのです。その「召命」によってこそクリスチャンは歩んでいくと言うことも律法ではなく福音です。なぜなら召命も、イエス様から福音の言葉によって与えられるものなのですから。召命によって歩むと言うことは、福音によって歩むと言うことと同じです。自分の思いや判断、決断、意思によって歩むと言うこととは全く違います。イエスが「私に従いなさい」と言うその声に従っていくことなのですから。その「召し」に使徒達は立ち返っていると言うことです。

6.「それぞれの召しがある」
 事実、その配給のことや、教会のみ言葉以外のことについて、その問題を決して放置はしていません。むしろ使徒達は、その「召し」に従って、執事の始まりと言われる最初の7人を皆で選び、皆で承認しているでしょう。ここで重要なのは、3節で「御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たち」とあるところです。ただ「知恵と評判」とは言っていない点です。「御霊と知恵に満ちた」と言っている点です。つまりそれは人間的な選びを意味していません。「御霊」とか「霊的」と言う時に、私たちが間違ってはいけないのは、私たち自身の力では何もできないことを意味しています。「霊的」と言う時には、聖霊はみ言葉を通して働くのですから、福音の豊かな働きと動機を意味していると言うことです。ですから、「御霊と知恵に満ちた評判の良い人々」とここで言う時には、律法的な人々、あるいは人間社会の価値基準である「律法的な視点での評判」ではなく、どこまでも福音中心に、「福音に生かされている」ことを判断したと言うことを意味している言葉です。そうでなければ「御霊と知恵に満ちる」と言うことは矛盾するわけです。そしてそれは人間的な「あの人がいい、この人がいい」と言う判断をそこでしたのではなくて、どこまでも「どの人がそのために「召されている」のか」と言うことが判断されたことを意味しているのです。やはり「召し」「召命」なのです。

7.「召しは「神の」召し」
 だからこそ、つまりそれが人間的な選びではないからこそ、6節こうあります。
「この人たちを使徒達の前に立たせた。そこで使徒達は祈って、手を彼らの上に置いた」
 それぞれ選んだ7人の頭に手を置いて、祈った。つまり7人の働きを、主なるイエスに、どこまでも求め、信頼する。それはその働きが、イエスから出たものであり、イエスによって支えられ、何よりイエスが命を持って与えた福音によるものであるからこそなのです。ですから「召命」「召し」と言うのは、人の選びや決心や意思によるものではありません。決して律法ではありません。どこまでイエスからの恵みの導き、福音のわざであるのです。
 その召命は一人一人に必ず与えられています。救われたこと自体が、一つの召命でもあります。「福音によって歩みなさい、福音によって愛し合いなさい」と言う召命は、一人一人に与えられているのです。その上で、それぞれが牧師であったり、長老であったり、役員であったり、あるいは祈るために召されていますし、それだけではありません。家族で父として、母としても召命があります。仕事先で、その職業、それぞれの立場にあっても召命があります。退職していても、あるいは年老いていても、その日その日、その場その場に主は召しを与えてくださっています。いや、死の直前であってもクリスチャンは主によって召されていると言えるでしょう。神を愛し、人を愛するためにです。その召命は、必ずあります。そしてそれは律法、重荷ではありません。福音です。そしてそれは、いつでも立ち返るべきところ、いつでも、そこに従って歩むべきところです。ぜひ主と交わり、主の福音を思いめぐらしながら、自分の主の召命は何であるのかを瞑想してみてください。福音の言葉は必ず答えを与えてくださいます。そしてそれに従って歩んでいきましょう。それは素晴らしいことですから。