2017年4月30日


「エマオの途上にて」
ルカによる福音書 24章13〜35節

1.「はじめに」
 イエスの復活は、ご自身が約束された通りに、死んで三日目の日の朝に起こりました。けれども弟子たちがそのことを悟るまでには時間がかかりました。最初は婦人たちが、墓にイエスの遺体がないのを見つけます。そんな彼女たちが途方に暮れているところに御使いが現れ言います。「イエスはよみがえったのです。イエスがかつてよみがえるといったことを思い出しなさい」と。彼女たちは、その言葉によってイエスの言葉を思い出して、イエスは本当によみがえったのだと信じるのです。そして彼女たちは、急いで弟子たちのところに走るのです。その良い知らせを伝えるためです。しかしその知らせを受けても弟子たちは彼女たちの話を信じなかった、つまり、復活を信じなかったのでした。ただ12節の所にありますように、シモン・ペテロだけは墓を見に行き、墓が空っぽであることを見て驚いたとまでは書かれていますが彼が復活を信じたかどうかは書かれていません。
 もちろんこの後、弟子たちもイエスがよみがえられたのを信じるようになります。しかし女性たちも、自分たちの力で信じることができたのではなく、御使いの告げるイエスのみ言葉とそのイエスの言葉を思い出されることによって信じるように導かれました。そのように「信仰」というのは、決して人のわざや力や決心でそこに至るのではなくて、神からの恵み、導きとしての信仰であることを彼女たちの記録、そしてこの箇所も伝えているのです。

2.「エルサレムを離れる二人」
「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に向かっていく途中であった。」
 これは「復活と同じ日」の出来事です。女性たちが伝えに来たその日ですが、二人の弟子が、エルサレムから11キロ、エマオという村に向かっていました。この二人の弟子については一人は18節にある通りクレオパという弟子です。大事な点は彼らがエルサレムを離れようとしている点です。14節を見ますと、彼らは二人で「この一切の出来事について話し合っていた」とあります。どの出来事かというと、それは十字架の出来事はもちろんですが、それだけではないのです。この後イエスが二人のもとに現れて、二人はそれがイエスであると気づかずにその論じ合っている内容を話しています。それは19〜24節まで書かれいますが、この二人は十字架の出来事だけでなく、その日の朝の出来事、つまり、女たちが墓に行ったら、重い石の蓋が開いていて中にはイエスの遺体がなかったこと、そして御使たちからの言葉を受けたことを話しているのです。
 しかし彼らは、「それでも」エルサレムを離れていこうとするのです。弟子たちは女たちのいうことを信じなかったことが書かれていますが、この二人もそうなのです。事実、23節では、彼らの説明で女性たちは「御使たちの幻を見た」と言っています。「幻」と言っています。女性たちは「幻」ではなく、事実「御使い」を見たと伝えたはずなのにです。信じていないのです。それだけでなく、この二人の沈んだ思いもここには現れています。まず17節に「二人は暗い顔つきになって」と彼らの心の内、感情を表している言葉です。決して喜ばしい状況で、エマオに向かっていないのです。暗い顔つきで二人はイエスに(イエスだと分からずに)十字架からその日の朝の出来事まで語ったのです。さらにイエスについては「過去形」で話しています。19節では「預言者でした」とあります。21節では二人は「しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖っていくださるはずだ、と望みをかけていました。」という言い方をしているでしょう。イエスによる「イスラエルの贖い」は十字架で完全に果たされました。しかしイエスの十字架はこの二人には躓きとなり、彼らにとってはイエスの十字架という結末は、彼らの期待していた贖いの形ではなかったとわかります。だから「望みをかけていました」と過去形なのです。つまり二人にとっては、その望みは失望に変わったというのです。ですから女性たちの復活の知らせも「たわごと」のように思えたことでしょう。彼らは暗い顔つきで望みを失って、イエスがよみがえったという知らせにもかかわらず、エルサレムを離れエマオに向かっているのです。何よりそんな二人に対するイエスの言葉が彼らのその信じない頑なさを表しているのがわかります。
「すると、イエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言った全てを信じない、心の鈍い人たち」25節

3.「人のわざではない信仰」
 復活の良い知らせ。その新しさ。新しいいのち。それはまさに福音の真髄であり、そこにキリスト教の信仰も教会も確かに始まっています。弟子たちもその十字架と復活を福音として世界に伝えていきました。しかし、それを「信じる」ということにおいて、弟子たち自身はみな無力であることがはっきりとわかります。自分たちでは信じることができません。イエスが前もって伝えていたことであっても、そして女性たちが喜びをもって伝えたことであっても彼らは信じることができないのです。それは人間の、私たちの事実を伝えている大事な事実の記録です。信仰は決して私たちの側から、私たちから湧き上がる力のわざ、行い、努力ではないのです。それはできません。誰一人できませんでした。誰一人信じられませんでした。女性たちとて最初は遺体に「香油を塗るため」に墓に行っていました。つまり復活を期待して墓に行っていません。墓が空っぽでも彼らは途方にくれるだけでしたし、御使いを見ても恐れるだけでした。しかしそんな彼女たちは、御使いがイエスが言ったことをもう一度語り、その言葉を思い出しなさいと導かれることによって、そのイエスの言葉をハッと思い出して、イエスはよみがえったのだと、初めて悟ったのです。主と主のみことばの導きがあってこその信仰でした。
 この信じることができない、頑なな心の弟子たちの姿は、人間のありのままを示しています。主イエスがいなければ、み言葉がなければ、主に導かれなければ、主の介入がなければ、誰も信じることができない。そんな罪深い頑なな心の人間です。

4.「イエスの方から」
 しかしそんな二人に対して、まさに「主イエスの方から」働かれているのです。
「話し合ったり論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。しかし二人の目は遮られていてイエスだと分からなかった。」15節
 「イエスご自身が近づいて」とあるでしょう。「イエスの方から」二人のところに来られ、そして二人とともに道を歩かれているでしょう。「イエスの方から」なのです。二人はむしろそれがイエスだとわかりません。そして「イエスの方から」話しかけられています。そして25節の言葉で、確かにイエスは二人の不信仰さと頑なな心を嘆いてはいます。しかしどうでしょうか。イエスは裁くために来られたのではないということが、ここでもはっきりとわかります。そのように不信仰で分からない二人に対してこう続いています。
「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。それから、イエスは、モーセおよび全ての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事柄を彼らに説き明かされた。」26〜27節
 どうでしょうか。イエスは、二人が分からないからこそ何度でも教えているでしょう。これまでも「モーセおよび全ての預言者から始めて、聖書全体の中から」「彼らに説き明かされ」てきたことでしょう。復活のことも前もって伝えていたことです。しかしそれでも信じなかった、女たちから復活の良い知らせを受けてもそれでもエルサレムを離れようとしたこの二人を、叱るのでもない、裁くのでもない、罰するのでもない、見捨てるのでもありません。み言葉から何度でも優しく教えるのです。そして彼らは後で気づいているでしょう。
「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださっている間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」32節
 と。自分たちはその時は全く気付かなかった、イエスの自分たちへの働きを悟っていることの証です。イエスはそんな分からない、信じない二人のためにこそ、聖書から何度でも話、心を燃やしてくださるのです。
 ですから皆さん。誤解しないでください。「すべてがわかるから、信仰が完全であるから、なんでも神の命令に従えるから、立派だと誇れるから、礼拝に集う資格がある、み言葉を聞く資格がある、聖餐に与る資格がある、クリスチャンになることができる」、これは全く間違いです。そうではありません。皆さん、安心してください。むしろ私たちが弱さを覚えるからこそ、罪深さを覚えるからこそ、信仰の弱さを覚えるからこそ、そして、わかならないからこそ、イエスはこの礼拝を備え、み言葉を語って、何度でも教えてくださっているのだということです。礼拝も、聖書のみ言葉も、聖餐式もそのためのものです。神、イエスが、弱く不完全な私たちのためにこそ備えてくださっている恵みなのです。イエスは今も聖書、み言葉を通して、何度でも教えてくださり、何度でも力づけてくださり、何度でも心を燃やしてくださるのです。だからこそ信仰も礼拝も、洗礼も聖餐も、それは決して「まず私たちの方からしなければならない」「律法」ではない。それはどこまでも「イエスから私たちへの」「福音」であるのです。

5.「目はイエスによって開かられる」
 この後もそのことは一貫しています。聖書の解き明かしを受けながらエマオにつきます。二人はイエスに、イエスだと分からず「一緒にお泊りください」と言います。イエスはそこで一緒に泊まりますがイエスはそこで彼らの目を開きます。どのようにしてでしょう。
「彼らとともに食卓につかれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。」30節
 彼らの目を開いたのは聖餐でした。二人がイエスを招いて泊まらせたのですから、二人がホストのはずです。しかしイエスがパンを取って祝福し裂いて渡された。それはまさに最後の晩餐の聖餐式と全く同じでした。これまでのみ言葉とそしてこの聖餐によって、彼らは目が開かれるのです。イエスだとわかるのです。そして復活のイエスに彼らは会ったのです。その時彼らは「イエスは確かによみがえられた」と信じるのです。しかしそれはまさに「目が開かれた」とある通り、イエスの方から、イエスによって、その言葉と聖餐によって導かれている全き恵みではありませんか。そのことを教えられるのではないでしょうか。そして32節の彼らの信仰告白になるのです。
「そこで二人は話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださっている間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」」32節
 二人は、イエスの方から現れてくださり、イエスによって導かれ、イエス様のみ言葉で、心燃やされ、目が開かれ、信仰がよみがえったことを告白しているではありませんか。そして「イエスが彼らには見えなくなった」とある言葉も非常に重要な言葉です。

6.「見えなくなったイエス」
 なぜ「見えなくなるのか」と皆さん、思いますか?「見えている方がいい」のに「なぜ消える」と思うでしょうか?実は、もはや見えなくなっていいのです。なぜなら、信仰が与えられたものにとってもはや見えることにより頼まなくてもいいでしょう。たとえ見えなくなっても、姿が見えなくても彼らはまた「信じない」になりましたか?なりません。もはや信仰が与えられたので、見えなくても二人は信じています。心は燃えています。見えなくても、イエスはよみがった、生きていると二人の信仰はイエスを見ているでしょう。信仰が与えられたなら見えなくてもいいのです。なぜなら聖書の言葉も言っているでしょう。信仰は見える事柄ではなく「目に見えないもの確信」させる素晴らしい天の賜物だからです。
 事実、どうでしょう。女性たちと同様に、この二人の「イエスはよみがえった、生きている」という信仰は、イエスが見えなくなっても、それまで暗く沈んで望みを失っていた心が180度変わっています。
「すぐさま二人は立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、「本当に主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。彼らも、道で会った色々なことや、パンを裂かれた時にイエスだとわかった次第を話した。」33節
 失望のうちにエルサレムを去り、エマオに向かっていた二人ですが、着いてすぐにエルサレムに引き返すのです。そしてやはり弟子たちのところに行くのです。イエスはその間にシモン・ペテロにも現れてくださったようで、弟子たちの間でもイエスがよみがえって、自分たちのところに来てくださったことで話が持ちきりだったのでした。そこにこの二人の弟子も同じように、その日の恵みの証をそのところでするのです。主に与えらえた信仰、恵みと福音による信仰は、このように「喜び」の派遣を生み、証と宣教を産むことがわかります。恵みと福音から湧き出る信仰とその喜びの行動が、このように、伝えるという、証しの原点であることも、このところから教えられます。

7.「おわりに」
 これが福音のなすわざ、イエスが私たちに現し、用い、私たちを通してなしてくださることなのです。それは律法から始まっていません。全てイエスからであり、福音が私たちに与えられ、私たちが福音を受けて喜ぶ時に、イエスの復活の知らせは広がって生きました。私たち自身はイエスの取り扱いを受ける前の弟子のようです。しかしイエスは今日も私たちに溢れるばかりの恵みのうちに招き福音を与えてくださいました。私たちも喜びましょう。安心しましょう。そしてその平安と喜びのうちにここから遣わされ、神を愛し、隣人を愛し、恵みを証して行きましょう。