2017年3月26日


「福音を告げ知らせるイエス」
ルカによる福音書 22章63〜71節

1.「神の言葉の真実さ」
 イエスへの迫害が強まっていきます。
「さて、イエスの監視人どもは、イエスをからかい、むちでたたいた。」63節
 このことから始まり十字架にまで続く、ユダヤ人やローマ人による迫害は、イエスが前に弟子たちに伝えていたことそのものです。18章32〜33節にこうあります。
「人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」18章32〜33節
 「あざけられ、むちで打たれ」とありますが、そのことがこのところで成就しています。23章では、イエスがピラトの前に引き出されることが書かれていますが、ピラトはローマの総督であり「異邦人」です。そのピラトが困り果てながらも、自己保身のためにイエスを有罪にし、そして「異邦人」である「ローマ兵」がイエスを改めてむち打ち、十字架刑に処すことになります。「異邦人に引き渡されむち打たれ十字架で処刑される」と言われたイエスの言葉がその通りに成就していくのです。そして大事な点は、この18章のイエスのことばですが、イエスは「預言者たちが書いていること」の成就として語っているということです(31節)。つまり、はるか昔に預言者を通して神が預言していたことが、自分のうちに実現することをイエスは語っていて、そして逮捕された時その通りに起こっていく、あるいは始まっていくということがこの今日のところに示されているのです。
 ですからまず第一に教えられることは、ここに「神は真実である。神の言葉はその通りになる」ということがはっきりと私たちに提示されているということです。
 そしてそれは「預言の成就」ですから、つまり「神から出ている」ことだとわかります。つまり、ここには神のはっきりとしたその思いと計画も、私たちにはっきりと示されているということに他なりません。ですから今日のこのイエスが、「からかわれ、むちで叩かれる」ことも、紛れもなく神の御心だということです。そしてそれはイザヤ書にもあるように「私たちのため」です。このように、ここから始まる痛々しい受難の記録の一つ一つには、その神の「私たちへ」の変わることのない真実さとみ思いがあるのだということを私たちは覚えたいのです。

2.「人の側の愚かさ」
 しかしこの時、その真実さを周りの迫害者は全く理解できません。むしろこのところは皮肉にあふれています。
「そして目隠しをして、「言い当てててみろ。今たたいているのは誰か」と聞いたりしていた。」64節
 監視人たちはなぜこんなことをしているのかわかるでしょうか。それはイエスは誰かという時に、ある人々は「イエスは預言者の一人である」と言ったのです。そしてイエスが注目を集めたのは、イエスはこれまで数々な不思議な奇跡を行ってきたからでもあったでしょう。監視人たちはそれをおそらく信ぜず、馬鹿にしているわけです。「預言者で奇跡を行えるなら、目隠ししても、誰がたたいているか言い当てることができるだろう」、ということともとれます。
 そしてこのことは彼らの「預言者」観と言いますか「メシア」観も垣間みえてきます。預言と言いましても、「神の言葉を預かる」ということで、旧約聖書に書かれ伝えられてきていることです。ですから何か特別な力で、魔法のように未来や何かを言い当てたりすることとは違います。しかし監視人たちの観る「預言者」や「メシア」は、聖書を伝える人、成就する人、とかそういうことではなく、まさにマジシャンや超能力者のように、「自分たちの目の前で、彼らが期待するような「しるし」」を見せてくれる人を超えるものではないことが、この行動や言葉からわかるのです。
 そして何が皮肉かというと、神の真実な言葉、預言が、イエスが十字架に従うことで着々と成就している中にあって、彼らは全くそれを理解できないで、「メシアなら」や「預言者なら」と嘲っているということだともいえるでしょう。
 この出来事が私たちに示すのことは、一貫しています。それは、この時、神の御心、約束、救いが成就しようとするその時、人の側は、どこまでも罪の側にあるということです。人は神のなさることに、全く無知で的外れで、しかも神のみ心であるイエスをわからず、信ぜず、嘲り、十字架につけようとさえしています。このことから示される一つの大事な事実は、この救いの成就である「十字架と復活の道」は、まさしく神のみわざ以外には決してありえない。人は決して救い主にはなりえない、誰も救いを実現できない。ただイエスだけが、その御心を行う。神の救いは、どこまでもイエス様による神の恵みであるということなのです。

3.「イエスが見ている救い」
 それはこの後の、議会における裁判でも貫かれていきます。66節以下ですが、ゲッセマネでの逮捕は夜の出来事で、カヤパの庭の出来事も皆夜の出来事です。そこから一夜が明けるのです。次の日、イエスは、議会に連れて行かれるのです。そして議会で尋問されるのです。
「こう言った。「あなたがキリストなら、そうだと言いなさい。」しかしイエスは言われた。「わたしが言っても、あなた方は決して信じないでしょうし、わたしが尋ねても、あなた方は決して応えないでしょう。」67〜68節
 議会はイエスに尋ねるのです。「あなたはキリストなのか。そうならそうだと言え」と。彼らはイエスに「そうだ」と言わせたいわけですが、それで、どうするかというと、彼らはキリストだと信じていないわけですから、イエスがそうだと言えば、神への侮辱、冒涜として律法に反すると告発することが真の狙いです。しかしそれに対するイエスの言葉は注目すべき言葉です。
「わたしが言っても、あなた方は決して信じないでしょうし、わたしが尋ねても、あなた方は決して応えないでしょう。」
 みなさん、この言葉が何を伝えているかわかるでしょうか。この言葉の意味がわかるでしょうか。この言葉にある、イエスの視点、関心は、敵対心ではありません。あるいは彼らのその罠を暴くことでもないでしょう。抵抗や弁明でもありません。イエスのこの答えは、何を言おうとしているでしょう。何を基準とした言葉でしょう。それはイエスが言ったり尋ねることに対して、彼らが「信じる」か、彼らが「応える」かにこそ、イエスはどこまでも注目があり、関心があることを示しているということです。イエスは、彼らが信じないことも、応えないことも、もちろんわかって言っていますが、しかし、自分を迫害し、自分を貶めようとする彼らに、どう仕返ししようか、どう反論しようかではなくて、彼らが「信じること」「応えること」に着眼点があっての質問だとわかるのです。つまり、このことから、イエスはどこまでも、誰に対しても、イエスを信じること、イエスの言葉に応えることこそ求めていることがわかります。それはイエスとイエスの言葉にこそ光があり、救いがあるからです。そしてこのことは、今まさにこの時、敵対し迫害している、自分を尋問し、自分を悪意を持って有罪にしようとしているその相手に対してさえも、信仰の目、救いの目で見ているということが見えてくるのです。ですから、ここでも十字架の目的、意味、思いどこまでもが貫かれているということなのです。そしてイエスは、その目線でこそはっきりと彼らに「答え」を与えています。

4.「どこまでも福音を」
「しかし今からのち、人の子は、神の大能の右の座に着きます。」69節
 この迫害の状況、十字架に架けられて死ぬ、その状況で、イエスは彼らにはっきりとこの言葉をいうのです。「わたしがキリストだ」というその言葉の前のこの言葉は重要です。それは彼らに「神の国の成就」を伝えているでしょう。この迫害者、十字架をつけるものたちに、十字架にかかることをご存知の上で、いや彼らが自分を十字架につけることまでも全て知った上で、今や人の子は、神の大能の右の座につく。神の国がそこに開かれ、自分が救い主としてたつ、救いはそこに成就するというのです。みなさんこれは、彼らへの裁きの言葉ではありません。これはまさに救いの成就の言葉、神の国の到来、つまり、福音の宣言ではありませんか。その迫害する彼らにイエスは、ここでも福音を語っていることがこの言葉の重要な意味だと言えるでしょう。イエスの思いがますますはっきりと見えてくるのではないでしょうか。イエスは、「裁くためではなく、御子によって、十字架によって、全世界が、すべての人々が、私たちが救われる」(ヨハネ3:17)ことを何よりも、この状況でも、願っておりられる。相手が罪深い、迫害者であっても、自分を十字架につけるものであったとしても、いや、「私たちも」イエスを十字架につける一人一人であるわけですが、その私たちのために、どんな人のためにも、いや、私たちが罪深いから、滅んでいくものであるからこそ、イエス様は、裁きではなく、十字架に従われる。裁きではなく、福音こそを伝えてくださっている。私たちが皆救われ、神の国に入ることを何より願っている。ご自身の命を犠牲にしてでもそのことに従われる神の大きな愛を私たちはこのところにも見ることができるのです。

5.「わたしはそれです。」
 この言葉の後に、イエスは言います。70節
「彼らはみなで言った。「ではあなたは神の子ですか。」すると、イエスは彼らに「あなた方のいう通り、わたしはそれです。」と言われた。すると、彼らは「これでもまだ証人が必要でしょうか。私たち自身が彼の口から直接それを聞いたのだから」と言った。」
 イエスは、自分が「キリスト」「神の子」ということが何を意味するかを、わかっています。彼らが何をしようとしているかもわかっています。しかし、その上で、福音、神の国を示しながら、イエスははっきりと言います。「わたしはそれだ」と。「わたしはキリストだ」と。そのように応えることは「十字架の死」を意味しています。しかしそれでもイエスはいうのです。「わたしはキリストだ」と。まさにそれは、イエスは杯を取り除くのではなく、神のみ心の通りになることに、そのまま従っていることがわかるではありませんか。そしてそれは何度も見てきました。今日も触れました。一貫しています。罪に堕落した、全世界の人々、私たち一人一人を、裁くためではない、私たちに罪の赦しをもたらし、神の前に罪のないものとして立たせるためでしょう。神の国に与るに値しないものであるのに、その神の国にただただ恵みのゆえに、信仰によって平安のうちに与らせるためではありませんか。その十字架の死と復活の新しい命に、私たちをも与らせ、私たちが日々罪赦され日々新しくされていくためにこそ、イエスは「わたしはキリスト」だと言っているのです。私たち一人一人のため、わたしのため、わたしを救うためにです。

6.「おわりに」
 みなさん、イエス様の十字架の道を見ていくことは残酷で、見たくないと思われても仕方がありません。しかしイエスの十字架、苦しみに、目を閉ざすのは、救いの核心を見失うことになります。私たちの信仰を弱らせる落とし穴になります。この十字架、十字架のイエスにこそ、神の思い、神の愛、神の恵みは完全に表されて実現しているのです。そして事実、この十字架、イエスこそ、私たちに罪の赦しと新しいいのちをもたらす救いの光です。私たちはこの受難節に、是非とも神が私たちに現してくださった神の思い、神の愛、神の恵みである十字架を見上げましょう。そして救いを確信し平安を得ようではありませんか。イエスはこの十字架と復活のゆえにこそ、今日も「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と行って、遣わしてくださっています。この幸い、恵みをしっかりと受け止め、イエスにしっかりとしがみついて、今週も平安のうちに歩んで行きましょう。そして神を愛し、隣人を愛していこうではありませんか。