2017年1月22日


「イエスが与える食事」
ルカによる福音書 22章14〜23節


1.「この食事を待ち望んでいた」
 整えられた過越の食事の場面です。その席でイエスはこのように語り出すのです。
「イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたか。」15節
 このようにイエスは、この過越の食事の席のことを前から知っているだけでなく、むしろ待ち望んでいました。しかしここでイエスは、「わたしは、苦しみを受ける前に」と言っています。その「苦しみ」は、逮捕され、痛めつけられ十字架で殺されることです。イエスはそのことまでも知っているのです。いやむしろ9章からずっと「エルサレムにまっすぐに目を向けて歩んできた」とあったように、イエスは、その十字架こそ神のみ心であるとして歩んできたでしょう。ですからこの言葉もその時が迫っていることを知っている「言葉」なのです。そしてこの食事の意味は「『十字架直前の最後の』大事な食事である」ということをイエスのこの言葉は伝えています。
 しかしそれは「ただ感傷的に最後に別れを惜しんでの食事」ということでは決してありません。イエスがなぜ、この食事を大事にしていたのでしょう。それはまさにイエスがこれまで教え、現してきた福音の意味、神の国の意味を弟子たちに伝えるための時だからこそ待ち望んでいたと言えるでしょう。事実、ヨハネの福音書では、13章から17章に至るまで、食事のこと以外に、そこで教えられたことが詳細に示されていますが、その内容は、まさに十字架の死による「神の国の福音」の教えに他なりません。一方で、このルカ、あるいは他の福音書も、イエスが十字架の前に大事な食事の席で伝える福音の核心は十字架とそして「聖餐」であることがわかるのですが、しかしそのことはルカがヨハネの福音書と矛盾するということではありません。ヨハネは他の三つの福音書が書いていないことを補うものとして書かれていますし、どちらもやはり十字架の直前に十字架の死と復活を示しているのですから、ヨハネの福音書にある詳細な教えも他の福音書の聖餐も、どちらもイエスがこの過越の食事の席で表された福音の真理を表しているということなのです。イエスはこう続けます。

2.「過越が神の国において成就する」
「あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」16節
 この言葉。まずイエスは「過越が神の国において成就するため」と言っています。このことは、ご自身の苦しみ、つまり、十字架のことを「過越」として見ていることがわかります。「過越」は、神がイスラエルをエジプトから救った出来事。子羊の血の犠牲によって、神の滅びの災い、死が過ぎ去ったことですが、イエスは、今、「過越が成就する」、つまり、ご自身の死、十字架、そこで流される血こそ、真の「過越」として、滅びが過ぎ去っていく出来事になることを、示唆してることがわかります。さらには、そのことを「神の国において成就する」とも言っています。このことは神の国はどこにあり、どこで成就するのかを私たちに示している言葉です。神の国はどこにあるのでしょう。それは神の国はイエスにこそあり、そのイエスの十字架にこそ成就し完成する。神の国はイエスの十字架にこそ開かれ、あることをイエスが教えていることがわかるのです。
 そのことがこの後のことからもわかると思います。16節でも、「神の国が成就するまでもはもはや二度と食事をしない」とあるのですが、18節もこうあります。17節から
「そしてイエスは杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いにわけて飲みなさい。あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造ったものを飲むことがありません。」
 ここでも、「神の国が来る時までは」とイエスは言っていますが、イエスは復活の後に、弟子たちと一緒に食事をし、パンを裂いて聖餐を行なっています。その復活は、十字架の死と一つであり切り離すことができない、救いの成就の出来事です。ですから、ここからも「過越が神の国において成就するまで」そして「神の国が来る時まで」が何を指しているのかわかるのです。それはイエスご自身であり十字架です。十字架と復活です。そこにこそ神の国はある、成就した。そのことを伝えていることがわかるのです。
 神の国はどこにあるのか。この問題。「神の国は、まだ実現していない、あるいは、まだそこに行っていない」、そう思われることがあるかもしれません。「神の国は死んだ後の天国なんだ」とそう思います。もちろん天国も神の国ですが、しかし、それは全てではなく一部です。むしろ神の国は、イエス様が来られたこと、そして十字架ですでに実現している現実であるということをこのところは教えているでしょう。しかもそれは「過去のこと」ということでもありません。聖書が約束するように、私たちがこのイエスの十字架と復活の恵みを受けていることが救いであるのなら、神の国はまさに「今」「すでに」私たちが、受けている現実、私たちは「今」、「すでに」イエスによって成就された神の国にあずかっている、受けているということでもあるのです。そのことを証ししているのが、ここに記されている聖餐であるということに繋がってくるのです。

3.「神から人へ」
「それからパンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」19節
 このイエスの聖餐の言葉は、私たちの救いが、決して私たち人間の行いや功績ではなく、いかに神の恵みであるのかを伝えてくれています。まず17節でもそうでしたが、食事は、イエスが「最初に杯を取って」リードし配っています。いつの時代もそうだと思いますが、その役割を担う人が、その食卓のホスト、主人、主催者です。つまり、この食卓のホスト、主人、主催は、弟子ではありません。イエスであるということです。「イエスが」弟子たちのために備えサーブをしてくださるのが聖餐の大事な意味なのです。ですから、聖餐式が、人間である「クリスチャンが」、「神であるイエス様のために」捧げる儀式であるとか、「イエスへの信仰の応答」として「私たちのわざ」であるというのは全く違うということです。どこまでも「イエスが」私たちにサーブ、仕え、与えてくださるものなのです。その通りではありませんか。
 弟子たちがパンを取り、裂いて、与えたとはここには書いていません。「イエスが」、パンを取り、裂いて、弟子たちに与えていることがわかります。このように聖餐は、私たちの側から何かをする律法ではなく、どこまでもイエスから私たち、神から私たちへ、与えてくださる恵みであるということが聖書からわかるのです。

4.「事実、与えられる」
 そして大事なのはその与える内容です。
「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。」
 大事なのは「わたしのからだです」という言葉です。パンを与えているのに「わたしのからだです」と言っているのは不思議です。そしてそれは私たちの知識や合理的な考え方では理解できないかもしれません。けれどもイエスは、パンをとり「これはわたしのからだを表すものです」とか、「わたしのからだを象徴するものです」とか「ようなものです」とは言いませんでした。「これはわたしのからだ」です、とイエスが言ったのです。これはマタイもマルコも一致しています。ぶどうの杯についても同じです。ルカでは「わたしの血による新しい契約」ですとあり、マルコでは「契約の血です」とあり、マタイでも「契約の血です」とあります。やはり「ようなもの」「表すもの」「象徴」とは言っていません。私たちはイエスのその言葉に、なんの脚色も付け加えもせずに、そのままのイエスの言葉を信じることはなんと幸いなことでしょう。もちろんそれはその時も、パンとぶどうです。しかし「同時に」イエスはその新しいいのちを創造し与えるみ言葉の宣言で、パンとぶどうを通して、確かに、イエスのからだと血を与えてくださっていることを、この言葉は示してくれていると言えるでしょう。
 事実どうでしょう。もし、イエスが聖餐で、象徴として私たちが覚えて応答するためのもののみを与えているのであり、イエスのからだと血を与えていないならどうでしょう。聖書が伝えるように、イエスの救い、罪の赦しは、イエス様の十字架の死に、つまり裂かれたからだと流された血にあります。今日のところでも「わたしの血による新しい契約」とある通りです。イエスの血と死によってこそ、サタンの滅び、罪の報酬である死は完全に過ぎ去って、そこに罪の完全な赦しとイエスの復活の新しいいのちという「新しい契約」「新しい約束」があると、イエスは示してくださっています。しかし、それがただのパンとぶどうであり、イエスのからだでも血でもなく、ただの象徴であるとか、私たちが思い出すためだけのものなら、どうして、どのようにして、そのイエスの与えんとするからだと血を私たちに与えうるのでしょうか。さらにもし聖餐がメモリアルであり象徴であり、私たちがただその象徴から覚える時、記念する時であるとするなら、それは「私たちから神へ」の行いとなります。しかしそうであるなら、ここで見てきたイエスがここでホストとしてイエスが取り、配り、恵みとして与える聖餐の恵みの意味は私たちになんの関係があるでしょう。矛盾するのです。しかもイエスは「この食卓をどれだけ待ち望んできたことか」というほどに、この聖餐に弟子たちに「与える」ことを、大事にし見てきましたが、それが「私たちから神へ」の出来事、メモリアルだとするなら、イエスの思いと全く矛盾してしまいます。

5.「罪人だからこそ与える聖餐」
 みなさん。幸いです。聖書ははっきりと伝え、約束しています。「イエスが」、この聖餐を私たちの救いのために定めてくださいました。そして、いつでも、いつの時代も、その十字架で裂かれたそのからだ、そして流されたその血、それを通して与えると約束してくださった新しいいのちと罪の赦しを、イエスが、現代の私たち、罪深く不完全な私たちにもこのように定めた聖餐を与えてくださるのですから。これはものすごく感謝なことです。
 なぜなら、21節以下をごらんください。そこには名前は言いませんが、全てをご存知で、イスカリオテのユダの裏切りをイエス様は示唆しています。ユダは金のために裏切ります。これは人から見るならば、ユダは、全くその聖餐に与るにふさわしくないものです。しかしどうでしょう。そのユダにもイエスはパンとぶどうを与えるのです。確かに裏切るものは災いであるとイエスは言っています。それは事実です。しかし神は悪を行わない方です。ユダの裏切りは神が仕組んだ、自己演出では決してありません。ユダの罪もサタンの誘惑の結果に他なりません。イエスはそれを知っていただけでです。しかし知っていても、災いである事実があっても、イエスはヨハネ13章では、そのユダの足を洗いました。そして、今日のところのように、ユダを、聖餐からも除外しませんでした。聖餐が人のわざ、応答であるなら、聖餐に全く値しないと私たちが思い除外するような罪深き者ににも、イエスはそのパンを裂き、杯を与えたのです。そしてユダだけではありません。24節では、弟子たちは、早速、誰が一番偉いかを議論し合うでしょう。弟子たちも何もわかっていません。罪深い一人一人のままです。しかし、誰か一番偉いかを論じ、そして他の誰が裏切っても自分は裏切らないと言って裏切り、三度否定する、その弟子たち一人一人のためにも、その足を洗い、イエスは、ここで聖餐を与えるでしょう。罪深さがふさわしくないというなら、皆ふさわしくありません。誰も受けるに値しません。まして誰もイエスのために何もできません。どこまでも罪深い。しかし、イエスがこのように聖餐を与えてくださる。それはまさに神から人へ、罪人へ、罪人のための恵みだからです。このように、弟子、私たちが罪深い者だからこそイエスはこの聖餐の主人となり、サーブしてくださり、与えてくださるのではありませんか。

6.「平安と希望は十字架に」
 この恵みは私たちにイエスが与える圧倒的な平安と希望を与えてくれます。私たちは恵みのゆえに信仰によって救われています。神は、私たちの行いではなく、イエスの十字架の血潮のゆえに、私たちから滅びと死を過ぎ去られせてくださいました。私たちは滅ぶべきものなのに、ただただイエスの死と復活のゆえに、神の前に罪赦され、全く新しくされました。しかしそれでもなおも罪を犯す罪人です。私自身がそうです。恵みを忘れ十字架を忘れるものです。神を疑うものです。自分で義を立てようとするものであり、自分が神のようになろうとするものであり、せっせと自分のバベルを立てようとする罪人です。人はそのままでは神の前にどこまでも罪人なのです。義人はいないのです。しかし、神が、その罪人に、「イエスという義の衣」を着せてくださったでしょう。神が、イエスのゆえにこそ罪赦されたものとしてくださっているでしょう。だからこそ私たちは日々、罪を悔い改め、イエスに立ち返るでしょう。イエスの十字架にです。そしてパウロの言うように、「イエスの死といのち」に日々あずかって、新しくされてこそ、安心がくるではありませんか。そうです。私たちにはイエスの十字架が日々必要なのです。その必要なものを、イエスは与えてくれるでしょう。イエスの死と復活を、イエスの体と血を、み言葉とこの聖餐で。それがあるからこそ、救われていることに安心して、私たちは新しいいのちに生かされるのです。イエスはそのことを伝えています。今、私たちはその約束の通りに、イエスのからだと血が、イエス様によって私たちにも与えられていることをぜひ覚え感謝したいのです。安心したいのです。

7.「むすび」
 今日もイエスは私たちに「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と言って遣わしてくださいます。イエスの十字架の血とからだを恵みの手段であるみ言葉、洗礼。聖餐を通していつも与えられている恵みを覚え、受けながら、救われていることの確信と平安を与えられ、その喜びと平安のうちに世に遣わされ、神を愛し隣人を愛していこうではありませんか。