2017年2月5日


「仕えてくださるキリスト」
ルカによる福音書 22章24〜30節

1.「はじめに」
 過越の祭りを迎えイエスは、この過越の祭りの食事を弟子たちとともにすることを、どれだけ待ち望んでいたのかと伝えます。それは「苦しみを受ける前」とイエスご自身が言われたように逮捕され十字架にかけられる直前の食事でした。そこでイエスは、その苦しみを通してこそ、ご自身が与える神の国、救いがあること、つまり「福音の真髄」を伝えます。その一つが「聖餐」の食事でした。イエスはこのパンとぶどうを通し、ご自身がかかる十字架の死によってイエスご自身の真のからだと血、罪の赦しと新しいいのちを与えるのだと弟子たちに示したのでした。それは私たちの行いや功績によるものでもなければ、その行いによって資格があるないではなくて、全くイエスから私たちへ与えられる恵みであり、それは裏切ろうとしているイスカリオテのユダにさえも与えられました。そのようにイエスは、どこまでも罪深いもののためにこそこられ、十字架にかかられ、恵みを与え、皆が悔い改めて命を得ることを何より望んでおられることを教えられたのでした。

2「誰が一番偉いかの議論」
 しかし弟子たちの方は、その素晴らしい神の国の食卓に与っていながら、そのことの意味がまだわからないのです。つまり彼らはこの十字架の直前であったとしてもどこまでも不完全であり、罪深いのはユダだけではないとわかります。彼らは、イエスの語った言葉に反応します。食卓に裏切るものが座っていると言う言葉であったのですが、弟子たちは、聖餐で語られた言葉よりも、この「裏切りを伝える言葉」に思いが奪われてしまっています。そしてそれは誰なのかと言う議論を始めます。その議論はさらにエスカレートしていきます。
「また、彼らの間には、この中で誰が一番偉いだろうかという議論も起こった。」24節
 このことは皮肉を示しています。それはイエスの聖餐の意味、イエスがされたことと「真逆」のことを弟子たちはするのです。イエスの聖餐には、イエスが仕え、イエスがサーブするという大事な意味がありました。そこには「仕えるもの」の姿がありました。ヨハネの福音書を見ますとイエスはその席で弟子たち一人一人の足を洗ったともあります。それは僕(しもべ)のすることですが、イエスは師であるのに「仕えられる」のではなく、弟子たちに「仕えた」のでした。
 そして聖餐の最も大事な意味は十字架です。十字架はピリピ2章にある通りです。
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。キリストは人としての性質を持って現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。」
 そうあります。しかもそれは「罪深い弟子たち、私たちのため」です。そのように罪深いものために自分を捨てるほどに、低くなられる。究極の仕える者の姿です。
 しかし、弟子たちは逆です。「誰が裏切るか」の議論にもそれは見えます。他の福音書を見ると「自分は他の誰が裏切っても自分はそんなことはしない」と弟子たちはいいます。「自分はそんなことをしない。そんなことをするのは誰なんだ」という議論でした。しかし実際は、ユダのようではなくても、皆、十字架の前でイエスを見捨てて逃げます。そしてペテロは三度、イエスを知らないと呪いを込めていうでしょう。人に仕えるのではなく、人のためではなく、自分の本来の罪深い現実を忘れ、自分を高めようとする高ぶる思いがそこにはあります。聖餐のイエスと全く逆の姿です。「誰が一番偉いだろうか」という議論はそれと同じです。彼らは十字架の直前であっても、そして、この素晴らしい神の国の食卓、恵みの聖餐の後も、それでも弟子たちは、尚も罪深い一人一人であることを、ルカはそのままありのままに記して私たちに伝えているのがわかるのです。

3.「弟子たちは十字架を負えない」
 しかしそれはまさに私たちに一つの大事な事実を示しています。それは、弟子たちは決して十字架を背負えなかったのだと。つまりここに「救いはどこから来るのか、どのように来るのか」が彼らの姿から明らかになるのです。それは人の功績、行いでは決してない。弟子たちが救いのための担い手、貢献者では決してない。彼らが救い主ではなかった。救いは、決して人の行いではない。ありえないと。そうではなく、ただ一人、エルサレムを、この過越の食事を、そして十字架と復活をまっすぐに見て歩んできたイエスこそが十字架にかかるのだと。そのイエスによってこそ聖餐がそうであったように、神から私たちへ、救いが、神の国が、罪の赦しと新しい命が与えられるのだと。そのことはこのところの根底に一貫して流れている福音であると言えるでしょう。

4.「イエスの愛と恵みに導かれる弟子たち」
 事実そんな弟子たちに対するイエスの教えはそのことで一貫しています。
「すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。だが、あなた方は、それではいけません。あなた方の間で一番偉い人は一番若い者のようになりなさい。また治める人は使える人のようでありなさい。食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなた方のうちにあって給仕する者のようにしています。」25節〜
 まず、イエスが弟子たちを教え育てる姿はいつもの通りです。聖餐の直後であり、そして仕える者の姿を示しているのに何もわかっていない弟子達、いや、この仕えることこそ幸いであることは、これまでもイエスが弟子たちに何度も教え、イエスが罪人たちを愛することによって示してきたことでしたが、それでも全くわかっていない、そんな弟子たちを、イエスは見捨てたりしないでしょう。怒ったり裁いたりもしません。イエスは同じことを何度も教えるのです。これがイエスの弟子、クリスチャンの一つの大事な姿です。弟子、クリスチャンはいつまでも完全ではありません。私たちが何か完全に条件をクリアして、完全になったから弟子となりクリスチャンとなったのでは決してありません。イエスの前にあっては、弟子、クリスチャンはいつまでも不完全で罪深いのです。むしろそのことをご存知、いやそのためにこそイエスは来られたでしょう。しかしイエスの喜び、幸いは、私たちが自分たちで完全になってついていくことではありません。イエスはむしろ罪深いままでも自分と言葉を信じてついて来る弟子たちこそがむしろ喜びであったと言えるでしょう。人間を獲る漁師に「なりなさい」ではなく、「人間を獲る漁師に『してあげよう』」、だから、「ついてきなさい」であったではありませんか。「イエスが」そのように育て、そのようにしてあげようと言っている言葉です。その通りに、どこまでもイエスは不完全で罪深い弟子たちに何度も何度も同じことを教えるのです。何度でも愛するでしょう。それは使徒の働きの時代でさえもそうです。イエスが言った通りに、聖霊がみ言葉を思い起こさせて弱り果てる使徒たちを何度も教え励ますことによって導いたでしょう。イエスは私たちに対してもそうなのです。私たちの弱さも罪深さも全てをご存知で、ついてきなさいと言ってくださっています。不完全な罪深い私たちを愛してくださっているのです。まさにその十字架です。そのイエスは、私たちが尚も罪深くわからないからこそ、何度も何度も、礼拝で、聖餐で、今日も、神の国を教えてくださっているのです。幸いなことです。

5.「仕えることの幸い」
 そしてイエスが繰り返し教えること。それは「仕える」ことです。イエスはここで世の王たちのことを例としてあげます。ここにある通り、世の王は人々を支配します。そして「人々の上に立つ権威は守護者と呼ばれる」。それは大きな名誉ある立場で呼ばれることを意味しています。このことはサムエル記で、イスラエルの民が、神がいるのに人間の王が欲しいと言ったことに対する神の警告を思い起こさせるところです。神はサムエルを通して、民に対し、人間の王はあなた方を支配し、あなた方に要求し、あなた方のものを奪い、自分の名誉と利益を求めると警告しました。その通りにサウルはなっていきます。ダビデも信仰の人ではありましたが、高ぶった時にはそうなっていきます。ソロモンもそうなっていき、分裂王朝のどちらの歴代の王もそうなっていきます。まさに神が警告した通りです。世の王は人に「仕えられる存在」であり、自分のために人に要求をする存在です。
 しかしイエスは神の国にあってはそうではない、そうであってはいけないというのです。全く逆です。神の国では「誰が偉いか」ではない。そうであってはいけない。王になってはいけない。誰もが一番、年の若い者のように、仕える人のように、給仕する人のように、なりなさい。それが神の国、神の国に与る者の姿なのだとイエスは教えるのです。27節の言葉の最後の言葉は意味深いです。「給仕する者のようになりなさい」ではないです。
「しかし、わたしは、あなた方のうちにあって給仕する者のようにしています」
 そう言っているでしょう。自分はそのようにしている。「まさに聖餐はそうであったではないか。罪人のたちとの食事はそうであったではないか。」ーイエスはこれまのご自分がしてきたこと、今もしていることを弟子たちに示していることがわかります。そして、その究極は十字架でしょう。世から見るなら、十字架は極悪人の敗北のゴールです。究極の敗北者、失敗者、屈辱と絶望の印です。仕えるものどころではありません。究極の罪の現実です。しかし真の仕える者の姿は、そこまでもまさに負われることこそを神はこのイエスの十字架に現されるでしょう。それは私たちの罪さえも負ってくださった。罪のない方が私たちに罪の赦しを与えるためにこの屈辱と絶望と死にまで従われた。そのことを伝えています。しかしその十字架があるからこそ私たちは神の前に安心して立つことができるでしょう。救い、神の国はそこにこそ開かれているでしょう。神の国はそのようなもの。十字架にこそ真理があり、光があり、門が開かれたように、その神の国は、「誰が偉いか」とか、「自分がこんなにやっている、どれだけしてきたか」ではなく、自分を無にするほどに、低くなり、仕えるところにこそ現実にあることをイエスは示しているのです。
 もちろん大事なことですが、そのことも「私たちがすべき」律法ではなく、み言葉と聖霊の力によること、「福音」です。弟子たちは自分ではそれができないでしょう。しかし、彼らは聖霊を受けた時にイエスが言ったように仕えるものにされていくことが、使徒の働きの証しでもあるからです。

6.「仕えてくださるイエスは福音」
 そして、ここにはもう一つの大事なことが教えられていると言えるでしょう。それは福音についてです。「仕えられる、要求する王」と「仕えるイエス」の対比は福音を明らかにしています。もちろん「仕えてくださるイエス」が福音なのですが。世の王、権力はどこまでも「要求」します。王自身のために私たちに求めます。支配します。イスラエルの民は、神を捨てててこの王を求め、王に繁栄と名誉と救いを求めました。しかしその結果は、神のいう通り王はどこまでも民のためではなく自分のために要求しました。支配しました。奪いました。それは、もしその世の王様、私たちによって仕えられる権力者に、救い、福音があるとするなら、そこに真理や救済を求めるなら、それは結局は自由ではなく、平安がなく、いつでも重荷で終わってしまうことを意味しているでしょう。世の王は私たちに「求める」からです。しかし、福音は、私たちに「仕えてくださるイエス」に明らかにされています。そうです。「福音」は「私たちに与え仕えてくださる神」そのものです。福音は、私たちを支配するためではありません。私たちを自由にするためにイエスは十字架にかかり信仰を与えてくださるでしょう。そして福音は「神のため」ではありませんでした。それは私たちのためにイエスは十字架にかかって死なれるでしょう。福音は私たちのためにです。そして福音は要求するのではありません。仕えてくださるイエスが聖餐を与えてくださったように、イエスが私たちのために十字架の死に従われたように、イエスはどこまでも私たちに、私たちのために与えてくださる方ではありませんか。
 そうです。これは福音を明らかにしているのです。律法は「神からの要求」であり、「人から神へ」を求めます。しかし福音はその逆です。神が人に与えるのであり、どこまでも神から人へです。それは仕えられる王ではなく、仕えてくださるイエスではありませんか。神の国はそこに開かれています。「わたしは給仕する者のようにしています」と言われる意味。私たちがいただき、そしてそこに生き生かされている福音が見えてくるのではないでしょうか。このように福音に生きるということ、賜物である信仰に生きるということは、まず「神から私たちへ」与えられるからこそなのです。そのようにイエスから受けるからこそ、私たちもイエスのようにされていくことができます。私たちがクリスチャンとして生きる時、地上の偉大な王ではなく、何よりこの私たちに仕えてくださった十字架のイエスを見上げること、そのいのちを受けること、福音に全てが始まることをこのところは教えているのです。

7.「おわりに」
 私たちは「仕えるもの」とされていきたいです。ぜひ求めて祈っていきましょう。主はそのようにしてくださいます。必ず。約束ですから。そのためにも私たちは、私たちが先に神を愛したのではなく、どこまでもまずこの罪深い私たちを愛してくださり、仕えてくださり、十字架にまで従ってくださったまことの恵みの神、救い主、イエスを仰ぎ、イエスの愛と恵みを覚え受けましょう。賛美しましょう。イエスは十字架にこそ、私たちの救いの確信と平安を与えて、その平安と確信と喜びのうちにイエスは遣わしてくださいます。そこに主は全てを備えてくださっているでしょう。その恵みのうちに遣わされ神を愛し、隣人を愛していきましょう。