2016年4月10日


「一枚の大事な銀貨」
ルカによる福音書 15章8〜10節

1.「はじめに」
 ルカ15章のイエスの三つのたとえ話。最初のたとえ話は一匹の失われた羊を探しに行く羊の所有者の話でした。このたとえ話は、イエスのところに近づいてきた罪人と呼ばれる人たちを、イエスは快く受け入れて一緒に食事をして話をしているところから始まっていました。しかしそれを見ていた律法の専門家など社会的に地位の高い人たちが、そんなイエスを蔑み、「なぜイエスはあのような罪人たちと一緒に食事をするのか」と批判するのです。なぜならユダヤの社会では、特に彼らのような地位の高い人たちは、そのような罪人たちと一緒に交わったり食事をしたりすることはしなかったですし、もししようものなら、彼らがイエスにしているように、自分たちも周りから同じように罪人と見られたからでした。それに対してイエスはあるたとえ話をするのです。それは、百匹の羊のうちの一匹の羊がいなくなったのなら、その所有者は、残りの九十九匹を残してでもそのいなくなった一匹を探すではないか。同じように神はこのよう罪人こそを探して、悔い改めさせ救うために来たのであり、もし罪人が悔い改めるのなら、天国では喜びの賛美がわき起こるのだと、そのようにご自身が彼らと食事をする意味と目的をイエスは教えたのでした。
 しかしイエス様は、一つだけのたとえ話では終わらないのです。同じようなたとえ話を三つ続けて話すのです。今日は2番目のたとえ話ではあるのですが、イエスがそのように3回繰り返すというのは、それはそれほどまでに強調したい大事な神の思い、御心であり、これが聖書にとっていかに大事なメッセージであるのかということでもあるでしょう。

2.「一枚の銀貨をなくした女」
 2番目のたとえ話も、共通することばは「失われた」です。何が失われたのでしょう?
「また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見るけるまで念入りに探さないでしょうか。」8節
 女の人が、10枚の銀貨のうち1枚の銀貨をなくしてしまった。それを必死に探している様をイエスは伝えています。まず、この「銀貨10枚」の意味です。そしてそれを探しているのが女性であるということです。どのようなことが考えらえるのか。この「銀貨10枚」というのは、当時、女性が結婚する時に、女性、新婦の側の持参金の額あるいは、婚礼のときの女性の「頭にかぶせる覆い」が銀貨十枚もの値段とも言われています。そして女性が結婚して、その金額、あるいは、その婚礼時の「頭の覆い」を大事にとっておいて、家庭が貧しくなった時に、その覆いを売って家計を保つことがあったと言われています。それが銀貨10枚の価値です。そしてそのうちの「銀貨1枚」の価値は、1日の賃金相当、そして、羊1匹の値段とも言われているのです。
 ですから、何のための銀貨にしても、一枚は大事な一枚です。前の羊の例えにもつながっています。羊一匹分の価値なのです。その大事な一枚がなくなってしまったのです。
 さらに「あかりをつけて」という言葉もあります。この時代のこの地域の家の中は、昼でも暗かったと言われています。窓が少なく、昼でも明かりが必要であったとも言われています。あるいはもちろん夜であったとも考えられます。そうであるなら夜に、もう寝静まる時間、わざわざ灯火を灯して探さなければいけないわけです。何れにしても「必死さ」が伝わってきます。「銀貨9枚でもやむをえない、しょうがない」とは言えない。どうしても銀貨10枚でなければいけないのでしょう。その1枚が欠けていてもダメなのです。昼でも夜でも、あかりを灯してでも探し出さなければならない大事な大事な一枚であることを、イエスは示唆しているわけです。

3.「罪人を探して救うために」
 イエスのメッセージは、失われた羊同様、わかりやすいのではないでしょうか?イエスと一緒に食事をしている人々、それは、世にあっては、蔑まれ、必要ないともされるような罪人たちです。誰も彼らを愛さない。社会にあっては愛するどころか嫌悪の対象です。失われた彼らは失われたままであるべき、それが世の彼らへの目線であり態度でもありました。世は、99匹のままでいいし、9枚のままでいいのです。多数の正しい人がいれば、正しくない人が失われてもそれでいいのです。
A, 「必要な1枚、1人」
 しかしイエスは違う。神はそう思っていない、ということがわかるのではないでしょうか。そのような罪人、取税人であったとしても、神にあっては「必要ない」などとんでもない。彼らも必要な大事な大事な一人であるのです。99匹を残してでも探し出したい、昼であっても夜であっても、明かりを灯して家中を必死に探し回って見つけなければいけない、彼らもそのような大事な大事な一人一人なんだ。そのことをイエスは伝えたいのです。「だからこそ、わたしは、彼らを喜んで受け入れよう。喜んで彼らと食事をしよう。喜んで彼らと話し、彼らの話を聞き、神の国を語ろう。悔い改めと救いを語ろう。なぜなら、彼らは大事な大事な一人だから。失われてしまっている一人なのだから。必要な彼らなのだから」ーイエスの人類一人一人、そして私たちへのメッセージなのです。
B, 「本来の人間の姿」
 みなさん、感謝ではありませんか。これが神の、人類一人一人への思いなのです。繰り返しになりますが、その素晴らしさは、人類が本来、最初は、神と共にいたことを理解しなければ見えてきません。そのことは聖書の初めに描かれている人間の大前提です。人間は神と共にいました。と言いますか、神から創造され、つまり、生まれ、命を与えられて生きるものとなったと聖書にあるのです。そして、そこには神の深い深い愛と祝福があることも書かれています。神は人間を見て「祝福された」「非常に良かった」ときちんと書いてあるからです。言葉だけではありません。その通りに、その言葉の通りに、創造主なる神は最初の人間を優しく見守って、いつでも心配し、必要なものを与え、助け、養い、導かれている情景が、聖書の一番初めに書かれているのです。それが人間でした。本来の人間でした。神と神の言葉とともにあったのが本当の人間だったのです。そして、その神と神の言葉によっていつでも守られているからこそ、人は本当の安心を持って生きていました。聖書はそのことを伝えているのです。
C, 「神に反対し、自らが神のように」
 ですから、まさに、人間は皆、神にとっては大事な大事な銀貨一枚のように、大事な大事な一人一人なんです。神はそう人類を見ているのです。けれども人間の側の事実は、人間は、その神から離れていった。否定して反抗して、離れていった。むしろ自分たちが神のようになろうとしたと、聖書は伝えているのです。事実、人間の歴史が示しているのは、むしろ人間が中心になり神のようになって、築き上げて来た文明と歴史であるのではないでしょうか。確かにそれは発展の歴史でもありますが、しかし同時に、そのコインの裏は、各々の自己中心さのぶつかり合いの歴史でもあるわけです。人間の歴史は、戦争の歴史であるとも言われています。そればかりではない、文明の発展にはその陰に貧者と弱者が虐げられてきた、触れられない面もあります。今でも豊かさの陰に、略奪や搾取は絶えることがありません。豊かな国とは言っても、貧困の問題、貧富の差の拡大は、先進国では実に深刻な問題ですが、どの国も、それにあまり触れようとしない、取り組もうとしないとも言われています。先日は、テレビで先進国の国内の貧困や貧富の差の拡大の問題日ての取り組みの比較が特集されていましたが、まだアメリカの方が取り組んで是正をしようとしていて、一番、消極的なのはこの日本であるとも伝えらえていました。人間の発展の裏の現実です。このように、人間のなすことは何でしょうか。その歴史は、人間の栄光の歴史でしょうか?栄光の裏は、栄光と正反対の事実が確かにあります。人間が神になってきた歴史の現実と、その矛盾と残酷さです。聖書は、初めから神は人を愛し、祝福し、そして人が神を愛し、人が人を愛することこそ何より望んできました。しかし神から離れていった、神を必要ないとして、人間が神のようになっていった結果がこの今の世の様々な闇の事実であることを聖書は示唆しているのです。それは失われていることと同じです。
 このイエスが語っている食事の場は、まさにこのことの縮図です。食事に来ている罪人たちはまさに罪人、しかし、周りで批判している彼らも神から離れ、神に反抗し、そして人を自分たちの秤でしか愛したり批判したりすることしかできない、まさに世界の縮図のようなその場であり、まさにそこにいる人はイエス意外は、皆、同じ失われた一人一人であることをある意味、示しているのです。
D, 「イエスは探し見つけている」
 イエスは、言います。皆大事な一枚一枚なんだと。一人一人なんだと。誰一人失われてもいけない。皆、悔い改めて救われなければいけない。そのために私は来たのだと。私は一人一人、この罪人たちをも、探すために、彼らが悔い改めて救いの命を得るために、そして互いに愛し合うために、そのために来て、自分は食事をしているのだと。イエスは伝えたいのです。
 幸いではないでしょうか。みなさん、一人一人が、イエス様の目にあってその一人一人です。イエスはあなたを呼んでいます。探しています。必死にです。ぜひ見つけられましょう。いやイエスはすでに見つけています。手を差し伸べています。コイン自体はその見つけた人が差し伸ばしつかんだ手を払うことはできないでしょう。コインは見つけられたら、そのままその見つけた人の手に任せるだけです。救いというのはそれでいいのです。信じるとはそれでいいのです。誰でもそのまま、イエスについていけばいいのです。それが聖書が教える信仰、信じて生きることの幸いと素晴らしさに他なりません。何かしなければ入門できない、信者になれない、ではないのです。それは世の宗教です。しかし聖書の招きは、このイエス様を信じるだけでいい。探してあなたをつかんでいるその手に任せればいい。与えられる洗礼をそのまま受ければいい。それだけなのです。それはクリスチャンも同じです。イエスの手にすべてを任せることこそ、完全です。間違いがありません。イエスの手にすべてを任せるからこそ、イエスはすべてのことを働かせて益としてくださるとも約束しているでしょう。クリスチャンもそのままでいいのです。委ね任せ、そこから来る平安と喜びをもって人を愛することこそ、何よりの道です。実に、委ね任せるからこそ平安でもあるでしょう。喜びはそこにこそ湧き上がってくるものでしょう。そこから始まる強いられない、信仰による自由な行いこそ、本当の良い行いでもあります。そのことを伝えているのが、このコインを探す彼女と失われたコインのたとえなのです。幸いなメッセージです。

4.「1人の悔い改めと救いは、神の喜び、天の喜び」
 そして、羊の例えと、結論は同じです。同じ結論も三度くり返されている。それほどまでに重要なメッセージであるということです。
「見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、「なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください」というでしょう。あなた方に言いますが、それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使たちに喜びがわき起こるのです。」9?10節
 一人の失われた人が見つかること、一人の人が神の前に悔い改めて救われるならば、それは神にとっては、大喜びであり、神の国では、天使も賛美が湧き上がるのだと、言うのです。それが神の人類への思いなんです。その喜びのために、その失われた人が、神に帰ってくることのために、神はイエスを救い主として送ってくださったのです。そして事実、イエスは、罪人を探しています。罪人と喜んで食事をしています。そうなのです。イエスは神の愛の実現です。神の救いを私たちに与えるために、私たちを探して、見つけて、神のもとに帰らせて、本来の人間の姿、神のもとにあり、神の言葉によって安心して生きるものに帰るようにと、イエスはその目的のために来られた、人類の救い主なのです。

5.「終わりに」
 私たちはそのイエスを信じるだけでいい。そのまま与えてくださる洗礼を受ければいい。それは先程も言いましたように、もう既にあなたを見つけてつかんでいるその手を拒まないことです。そのままでいい。そのままでイエスのその手に任せることです。それであなたも神のもとに帰るのです。ぜひ帰ろうではありませんか。