2016年3月20日


「神は失われたものを捜すために」
ルカによる福音書 15章1〜7節

1.「はじめに」
 これはイエスが話された「たとえ話」ですが、聖書のメッセージの中のとても大事な中心とも言えるようなメッセージが込められています。それは聖書の神は私たちにとってどのような神なのか、私たちにどのような思いがあるのか、そしてどれほどにこの世、私たちを愛しておられるのか?そのことを私たちに伝えてくれているところなのです。

2.「取税人と罪人」
「さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとしてみもとに近寄ってきた。」
 取税人とあります。この時代のユダヤにいた人々ですが、文字どおり税を徴収する人々です。とは言ってもユダヤの税ではありません。当時のユダヤはローマ帝国の属国です。つまり同じユダヤ人でありながら、その支配しているローマの税金を集める人々が取税人でした。同じ民族なのに、占領している国の税金を集めるのですから、どうでしょうか?中にはあまり良い思いをしない人々はいたことでしょう。「ローマの使い」として見る人もいたようです。けれどもそれだけではありませんでした。取税人たちは、税金を正しく集めていないということがよくあったようなのです。本来、集める金額より多く徴収して、その多い分で利益を得ていたとも言われています。それはローマとの関係、仕事上の報酬の約束としては正当なことであったのかどうかはわかりませんが、ユダヤの人々はそのことに不正を見ていたようなのです。そして、事実、取税人は裕福になっていくわけですから怪しまれますし、多くの人は気づくわけです。不正の富を得ていると。ですから彼らはとても嫌われていました。交わりを持つことさえも汚れているとか言われたとも言われています。この後に「罪人」という言葉がありますが、取税人たちはユダヤ人の中ではその「罪人」とも呼ばれていました。
 その取税人と「罪人たち」、それは複数の取税人がいたということでもあるでしょうし、取税人以外にも、汚れているとか罪人と呼ばれる人はたくさんいました。長い間治らない病気や目に明らかな皮膚の病気などは、今のように医者で科学的に原因がある程度わかるような時代ではありませんでしたから、当時はそのような病気はその人の罪とか悪い行いのせいだとか、父親や先祖が罪を犯したなどで、やはり「汚れた人」とか「罪人」というレッテルを貼られる人々は少なくなかったのです。もちろんそのような人々がそこに含まれていたかどうかは書かれていませんが。
 そのような「罪人」と呼ばれる人々が、イエスの話を聞こうとしてやってきたのでした。どうでしょう。そのように虐げられたり、あるいは自分の罪深さを知って、自分が嫌になったり失望したり絶望したりする時、人はやはり誰かに助けをすがりたいのではないでしょうか。罪人と呼ばれる取税人たちも、つまり彼らも自分たちのそのような不正や罪の罪悪感に苦しむときに、やはり罪の赦しを求めたことでしょう。
 ですから彼らは、救いを求めて、赦しを求めて、イエスの話を聞こうと近寄ってきたのです。この「近寄ってきた」という言葉は、それは公然と、堂々とやってきたということでもありません。まさに恐る恐る近寄ってきたようでもあるのです。けれどもこう続いています。

3.「パリサイ人、律法学者たち」
「すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人たちは、罪人を受け入れて、食事まで一緒にする。」2節
 このつぶやきは蔑みと批判です。ここにある「パリサイ人、律法学者たち」というのは、その取税人や罪人たちとはむしろ逆の人たちです。聖書の律法や伝統に忠実で、教える人々です。社会的にも地位が高く尊敬されています。そして、自他共に認める自分が正しいと思っている人々でもあり、その律法の番人であるかのように、律法に人々が従うように教えたり、戒めたり、あるいは裁いたり批判したりする人々でもあります。
 そんな彼らはここにある通り罪人たちと交わりは持たないのです。交わりを持つなどしたら、自分までも汚れたものとみなされると信じていましたし人々をもそう見ていました。ですからまさにイエスに対してそう見ています。まして食事です。食事など一緒にすることなどありません。そんな罪人とイエスは食事をされている。蔑み、批判をするわけです。

4.「イエスの愛?失われた羊の例え」
A, 「一緒に食事」
 しかしご覧ください。まずこの彼らの批判の言葉に幸いなことを見ることができます。「食事をしている」という批判の言葉です。つまり何を意味しているかというと、そのように恐る恐る話を聞くために近寄ってきた取税人や罪人たちを、イエスはまず「受け入れた」ことがわかるでしょう。ただ受け入れたわけではありません。まさに「一緒に食事」をしていることがわかるでしょう。イエスは彼らを心より喜んで受け入れて、食事に招いて、一緒に食事をしながら交わり、その悔い改めと神の国、罪の赦しと救いの話をされたことがわかるのです。そのことをまず確認できます。ですから皆さん。イエスはそのように罪や孤独や世の蔑みによって悲しみ苦しむ人々をも決して避けたり、拒んだりしない、蔑んだりもしない。喜んで受け入れて交わってくださる。そして救いの言葉を話してくださるのだということです。
 そして、そのように周りで蔑んでいるパリサイ人や律法学者たちのつぶやき、蔑みをイエスはわかりました。そして彼らに話したのがこの幸いなたとえ話なのです。
B, 「百匹の羊を持っている所有者?全ては神のもの」4節
「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。」
@「全ては神のもの?本来の人間と平安」
 百匹の羊、しかし一匹をなくした。つまり、その一匹の羊は迷い出たということです。そうしたら、その人は、九十九匹を残して、その迷い出た一匹を見つけるまで捜し歩かないだろうかと、イエスは問いかけます。まず、これは九十九匹を無防備に放置するということは意味していません。当時の一人の羊飼いが見る羊の数は、通常、三十匹ほどですので、百匹の羊を所有しているということは、3人ぐらいで見ているということを意味しています。しかし幸いなのは、ここではその百匹を「見ている人」というよりは「持っている人」という言葉です。つまりそれは所有者であり、主人だということです。そして、その迷い出た一匹の羊を、その「所有者である主人が、探しに行く」ということを伝えているということです。そしてイエスはご自身をそのことにたとえているわけです。これはものすごく幸いなことをいくつも伝えています。
 まず「百匹は皆、その人のものである」ということです。迷子になった一匹ももちろん、この百匹は、まさにすべての人のものであることを指しています。つまりこれはこの目の前にいる取税人も罪人も、その全てがイエスのもの、つまり神のものだとイエスはまず示しているのです。
 確かにこのことは聖書の全体のメッセージにあっています。なぜなら聖書はまずはじめに、全てのものは神によって創造され命を与えられて生きるものとなったと、人間の初めをはっきりと伝えているからです。つまり全ては神から生まれた神のものであると。そればかりではありません。その神は、羊飼いが羊を優しく飼い、養い、守り、導くように、人間を優しいその言葉と愛で、祝福し、養い、守り、導いていることを聖書の一番初めのところに書いているからです。そして大事な点ですがそれが人間の本来の姿であり、その神のもとにある人間は、本当に平安であったこともわかるのです。このように、すべての人は神のもの、神の大事な羊なんです。そのことをまず第一に示しているのです。
A「神から離れた人間の迷いと不安」
 けれども今、人間はどうでしょう。神のもとで平和であったのに、それが本来の人間であったのに、まさにその神から離れているでしょう。神はいないと言います。神を信じられません。多くの人は神よりも自分が中心であり、自分が大事です。自分を何より愛することしかできません。自分の思う道を行きます。しかし同時に人はいつでも不安です。何が真理かわかりません。どこから来てどこへ行くのか、わかりません。生きる意味がわからず、存在の価値も見失います。多くの人は、他の人との比較で価値を見出して安心しようとします。多くの場合は、他と比べて、あるいは社会の大多数の価値観に合っているか、それと同じか、あるいはそれ以上の優越感があると満足したり安心したりします。しかしその同じ「比較」で、不安にもなり、価値も見失ったりします。そうではないでしょうか?世の中の、様々なニュースなどを見ていてもそう思わされます。それは曖昧な拠り所です。曖昧な安心です。曖昧な安心ということは、不安だということです。つまり「迷っている」のです。聖書、神は、そのことを、人間は、それは本来の神が命を与えた通りの本来の人間から、迷い出てしまっていると、伝えているんです。
B「失われた羊とは」
 この迷子の羊、失われた羊は、ここではまさに取税人や罪人を指しています。彼らは罪人と呼ばれていました。虐げられていました。社会における比較どころか、まったくもって、自分の存在の意味も価値も見出せなかったでしょう。あるいは正しい生き方も見失っていたことでしょう。まさに迷い出てしまっているのです。社会では、その迷い出た人々を見捨てました。
 けれどもイエスは、神はそうではないと言っているのです。この迷子の羊は、全ての人類、私たち一人一人でもあります。すべての人は、もし神から離れているなら、皆失われた人です。それに対して、世はどういうでしょう?世は、残った99匹も価値ある存在が残っているのだから、一匹の価値のないものはしょうがないというかもしれません。しかし神は違うと言います。神にとっては、皆神の百匹です。その中の一匹が迷子になったら、その所有者である主人本人が、ご自身が、探しに行く。見つけるまで。大事な大事な財産であるから。大事な存在であるから。大事な羊であるから。見つかるまで探しに行く。神はそのようなお方であるとイエスは言っているのです。このように神は、誰一人とて見過ごされません。いなくていいと言いません。どんなに罪深い人でも大事な一匹です。その人を探してくださいます。探しておられます。イエスはそのように私たち一人一人を探すために来られました。そのことがこのように、見つけたものと、一緒に食事をされることに現れているのです。
C「見つけてくださる?神からの一方的な働き」
 そして「見つけてくださる」という言葉も幸いです。迷子になった羊が自ら、行かなかければいけないようなことは書いていません。迷子の羊はどこまでも迷子です。しかし、神が、神の方から来てくださり、神が見つけてくださり、神が救い出してくださるのです。私たちは何もできない。自らでは自分を救うことも、罪を赦すこともできません。自ら神を見出すこともできませんし、天国というところがあっても、そこに自分から行ける人など誰もいません。しかし聖書は伝えています。神の方から、来てくださる。探しにきてくだり見つけてくださると。これが聖書の伝える「恵み」であり救いです。
 幸いではありませんか。イエスが探しています。イエスが見つけてくださっています。イエスが手を差し伸べて私たちを掴もうとしておられます。その手をはらう必要はないでしょう?その助け出そうとする手に任せて救われることは当たり前のことではありませんか。ぜひその神の手にそのまま任せて迷子から助け出され安心しようではありませんか。
C, 「神の喜び、天の喜び」
 最後にイエスの、つまり神の喜びも記されています。
「見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友達や近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、一緒に喜んでください」と言うでしょう。5?6節
 見つけたら神は大喜びだというのです。そして天国にいる人々や天使たちと神は喜びを分かち合うというのです。私たちが救われることは、天国で喜びの歌が溢れる、それくらい凄い出来事なんだとイエスは言っているのです。そしてこう結んで例えの答えを教えてくれています。
「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人に勝る喜びが天にあるのです。」7節
 神が望んでいること、天国の喜び、それは一人の罪人が悔い改めることだと。それは、まさに迷子の羊が神に助け出されることです。罪とありますが、聖書のいう罪は、そのように本来一緒にいたはずの神から拒んで否定して離れてしまっていることを罪、あるいは原罪と言います。ですから一人の罪人の悔い改めとは、神から離れてしまっていた人が、探しに来た神の言葉(聖書の言葉)でそのことを教えられ、その間違いに気づかされ、その探しに来た招きの声(聖書の言葉)、福音と呼ばれる招く声を聞き、その自分に伸ばされている助け出そうとする手を拒まないで、そのままイエスの手に任せることなのです。そして神のところに帰ることです。羊飼いのもとに帰り羊が安心して過ごすように、そのように神のところに戻って神のもとで安心して過ごすこと、それが救いであり、そのためにこそイエスは来られました。イエスは探しておられる。私たち一人一人をです。

5.「終わりに」
 みなさん。ぜひこの今日の聖書の招きに耳を傾けてください。心に刻みましょう。神はあなたを愛しています。あなたを探しています。心配しています。そして見つけて助け出そうと手を差し伸べていると。ぜひ拒まずにそのままその手に任せ、神のもとに帰ろうではありませんか。安心の神のところに帰って、本当に安心しようではありませんか。