2014年8月24日


「『私のために』イエス、神の国はきている」
ルカによる福音書8章1〜3節
1.「神の国を伝えるために」
 ここはイエスの宣教の旅の説明のようなところではあるのですが、このところにも神の国の幸いを見ることができるのです。
「その後、イエスは、神の国を説き、その福音を宣べ伝えながら、町や村を次から次に旅をしておられた。十二弟子もお供していた。」(1節)
 イエスの旅が続いて行きます。イエスの働きの変わることのない中心がわかります。それは「神の国」を説き、その福音を宣べたということです。「神の国」という言葉は、新約聖書では100回以上使われていますが、マタイは「天の御国」という言葉でも言っていますので、それを合わせると、更に沢山出てくる言葉です。むしろ大事なことは、イエスの伝える福音、あるいは福音の宣教、説教はその神の国を伝えることであったということです。宣教の開始の言葉は何であったでしょう?それは「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)でした。山上の説教の最初の言葉は何であったでしょうか?それは「心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人達のものだから」(マタイ5:3)でした。イエスは神の国、天の御国のことを伝えたのです。

2.「神の国は神の恵みの広がり」
 そして、その神の国を伝えたということが意味する第二のことですが、それは「神の国」というのは、神から一方的に与えられるものとしての国であるということです。イエスが神の国を語る時、それは、私達が努力して到達しなければいけない国や目標を決して伝えてはいません。私達が建設しなければいけない国でもありません。イエスが神の国を私達に約束し伝える時、それは神が与える賜物を意味しています。イエスの宣教開始のことばは「神の国が近づいた」でした。前回のメッセージと一致しますが、「私達が神の国へ」「私達が神の国を」ではなく、「神の国が私達のところへ」来たということです。そしてそれは自ずと「神の国が来る」ということは、イエスが天から私達に所へ来られ人となれたということと同じことを意味しています。さらには神の国は、福音と一緒に語られてもいます。つまりイエスが来られて福音が語られるところ、伝えられるところ、そこに、神の国はすでに来ているという意味でイエス、福音書は私達に伝えているのです。それはイエス・キリストそのものが福音であり、神の国の広がりであり、私達のところにそれはやって来て、私達に一方的に与らせる、与えられるもの、それが「神の国」だということです。実にそうではないでしょうか?「イエスは神の国の広がり、到来」としての証しが福音書には溢れています。病気の人が癒された、悪霊につかれた人から霊が追い出された、そのようなイエスの御業が福音書では沢山伝えられています。しかしそれはただ奇跡はすばらしいなあ、神は憐れみ深いなあ、それだけのメッセージではないのです。それは、神の国がまさに地上に実現し、その神の国の力がイエスとその権威ある御言葉を通して及び、働き、現れたことの証しとして私達に伝えられているのです。そのように天から御子イエス・キリストが来られ、イエスが語り、イエスが行ない、イエスが与える、その神の恵みがあるところ、イエスと聖霊によって福音と救いが実現する所に、神の国はある、つまりその周り町々、村々に神の国があり、そしてこの2014年の今も、神の国は私達の所にあることこそ、イエスが「神の国を説き、福音を宣べ伝えた」とあるこの御言葉の私達へのメッセージなのです。今も私達のこの教会のこの礼拝の真ん中には、私(牧師)がいるのではなく、イエス・キリストがおられるのです。その御言葉が語られ、説教されているからです。イエスがここにおられるのです。そして私達は神の国に今ある。そのことを私達に語っているのです。

3.「神の国、それは罪の赦しの福音」
 そして「神の国が説かれ、福音が宣べ伝えられている」ーそのことが私達に伝えることの三番目のことですが、神の国、福音、それは神の与える「罪の赦し」のことであり、罪の赦しによって開かれ、入れられる恵みであるということです。実にこの前に起こった出来事は、イエスはパリサイ人シモンに一番大事なことを伝えていたでしょう。罪深い女に「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」ーそれが福音であり、神の国であることをイエスは教えました。地上での立派さや良い評価におごり、自分の罪ではなく、隣の罪深い女の罪しか見ることができず、裁くことしかできないようなパリサイ人よりも、イエスは、自分の罪深さを自覚しそれに痛み苦しみ、泣き、悔い改め、自分の罪の赦しを願い、感謝し、喜ぶ、この女のことを神の国の証しとしました。そして、イエスの彼女への救いの言葉は「あなたの罪は赦されています。あなたの信仰があなたを救ったのです。安心していきなさい。」でした。そのことはそこだけではなくて、ルカの15章の、一匹の迷子の羊のたとえ、羊飼いは99匹を残し、その一匹を探しに行き、そして、その迷子の羊を見つけた時の喜びにたとえて、イエス様は「一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」とも言いました(ルカ15:7)。そしてその後の放蕩息子の譬えでも、放蕩の限りをつくして帰ってきた息子のために宴をひらいて喜んだ(ルカ15:24)ことが書かれています。それが神の国のメッセージです。山上の説教の、心の貧しい人は幸いです。それは罪に苦しみ絶望する心。しかしそのような人は幸いであるというのです。神の国はその人のものだといいます。それは何よりイエスが十字架と復活によって、罪人に与えるものであるからこその十字架のメッセージでもありました。神の国はそのようなものです。神の国は、福音、つまり十字架による神からの罪の赦しが与えられるところにあり、神によって罪赦されたものの喜びの群れであり、それはそのことを天も喜んでいる、まさに「天の広がり」であるということなのです。ですから、何より「罪が赦されている」、それが人がどうこうではなく「自分のため、私のためである」ということが分る時にこそ、神の国が私たちにあることが信仰によって分り、それが聖霊によって平安と喜びになって行く。そしてその人は神を人を「多く愛していく」のです。私達は、今、自分がイエスの十字架によって罪が赦されているという確信にぜひ立ち返ろうではありませんか。そこにこそ救いの確信はあります。そしてそこにこそ「イエスの広がり」、私達がイエスのもの、天のものとされている、神の国の平安と喜びがあるのです。私達の信仰を強め立たせることができるものは、その他にはありません。イエスが「私のために」来られた。イエスが「あなたの罪は赦されている。安心して行きなさい」と言ってくださっている。私はそのイエスの洗礼によって確かに罪赦され、毎週、イエス様の与えるみことばと聖餐を受けている。ゆえに私達はすでに神の国にある。その恵みに今日も新たにされようではありませんか。そこに恵みによる私達の新しい歩みがあるのです。

4.「イエスがともなわれる」
 更なるここにある幸いなメッセージですが、その恵みの信仰の歩みは「イエスとともに」であるということです。神の国にあるものは、皆、イエスの弟子です。弟子は「イエスに伴う」ものであることが1節の終わりからわかるのですが、しかしその弟子がイエスに伴う、従うということも、それはイエスの「わたしについて来なさい」という恵みのことばの招きがあってのことです。「伴う」ということも、「ついて行く」ということも、それは私達に主導権があり、私達の計画や決心の業であるということではなく、実はそれはイエスの主導権によるものであり、イエスによってすべてが始まっていることであるというのが、このイエスの弟子達に、そしてここに書かれている女性達に共通している恵みであったでしょう。事実、弟子達は罪深い一人一人でした。しかし、イエスによって召されたのはもちろん、従った後でも、弟子達はイエスによってこそ、教えられ、戒められ、愛され、励まされ、導かれて来た旅であり生涯であったでしょう。弟子達がイエスを助け、導き、ホストした旅としては書かれていません。そして十字架のときの弟子達はまさに人間の罪、そのものを表していて、罪に対して無力以外の何ものでもありませんでした。何より、イエスの復活の後のクリスチャン達は、まさにイエスの「見よ、わたしは世の終わりまであなたがたとともにいる」(マタイ25:20)という約束にこそ支えられ、その通りに聖霊が与えられ、聖霊によってイエスがともない、イエスが行ない、助け、導いて来たのがクリスチャンであり、教会であり、その宣教であったでしょう。このように「弟子達が伴う」ということ以上に、イエスがともない、イエスがともにあり、イエスが働き、助け、導くのが、神の国であるということなのです。ですから、神の国にあるということ、そこに生きるということは、決して重荷になることではないのです。もちろん重荷や責任をなすり付け合うことも裁き合いも神の国に本当にあるなら生まれるはずがない。真に神の国にあるなら、律法さえも重荷でも義務でもない、喜びの指針となっていくのです。それはイエスが真の王として、祭司として、預言者として、まことの主、リーダーとして、ともにあるのですから、イエスに全ての重荷を下ろすことができるのですから。イエスの荷は背負いやすいという御言葉(マタイ11:28〜30)にある通りです。共にいてくださるイエスと神の国にあることへのまったき信頼は、まさに平安と喜びを私達にわき上がらせるのです。それがイエスの伝えている神の国、イエスが伴う神の国の素晴らしさなのです。

5.「すべての人のためのイエス」
 そして今日の箇所の最後の恵みのメッセージですが、この旅には、多くの女性達が伴っていたことが書かれています。病気を治していただいた女達、そして「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ」、財を持って仕えていたヨハンナ、そしてここでしか名前が登場しないスザンナ、さらに名前さえも出て来ない大勢の女性達がともにいたことが書かれています。この時代、女性達が先生と呼ばれる人について行くということ自体がまれでした。ラビに女性がついて行く、伴う、弟子入りするなどなかったからです。しかも罪深い女や貧しい女達が沢山、イエスのもとにいました。しかしまさにそのことこそ、神の国の真の姿にほかなりません。神の国はそのように社会にあっては差別されたり、蔑まれたり、除外されたりするような人々を決して差別しないし、除外しないのです。むしろすべての人、どんな人でも、それがどんなに罪深くとも、どんな人種であっても、全ての人々が差別されることも除外されることもなく受け入れられる。つまり、すべての人のためにイエスは来られ、全ての人のために罪の赦しはあり、すべての人のために神の国は与えられているということです。なぜならまさにイエスはそのような人々とこそ食事をされ、交わり、悔い改めを伝え、その救いを喜び、そしてその全ての罪人のためにこそ十字架にかかって死なれたではありませんか。神の国の真の姿、教会の真の姿はそこにあります。最近では、「大きな」「元気にある」「立派な」教会などでは、お金持ちや高学歴の人々や、地位の高い人々が教会にくると大歓迎し、逆に、本当に貧しい、みすぼらしい人、本当に罪深い人、前科のあるような人々が来ると、その歓迎や受け入れの差があまりにも露骨でひどいと、そこに躓いて信仰からはなれたという人の話しをよく聞くことがあり、それが本当であるならとても残念なことです。本当の神の国はそうではないのです。神はどんな人であっても、それがどんなに罪深い人であっても、どんなに思い暗い過去を引きずっていても、その全ての人々のためにこそ与えられているし、まさにその人々のためのものです。ですから周りは、教会には「あれ罪人が溢れている。失敗者ばかりではないか。」とか見て蔑むかもしれません。あるいは教会の内にあっても「失敗があっては行けない。自分のような失敗者や罪深い者がいては行けないのだ」とか気にすることもあるでしょう。しかしイエス様も周りからそのような蔑みを受けましたが、こう言いました。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるために来たのです。」(ルカ5:31〜32)
 失敗者、罪深い者、いても良いのです。いや、その人のためにこそイエス様は来られて、その人にこそ罪の赦しの救いの福音を語り、神の国を与えて下さるのです。そのように、すべての人をイエスは歓迎しておられるし、その人々が悔い改めることこそイエスの喜びであり、天の喜びなのです。そのためにこそイエスは来られ、十字架にかかって死なれたのですから。それが真の神の国の姿であり、福音であり、教会に他なりません。
 
6.「結び」
 私達は、一人一人が、ぜひ「私のために」イエスは来られた、「私のために」イエスは十字架にかかられた、「私のために」罪の赦しを与えて下さった、そして今私達は神の国にある。ぜひそのことをイエスの御言葉から確信し、イエスが与えて下さる平安と喜びを抱いて、この新しい歩みを歩んで行きましょう。