2014年9月28日


「神は私たちに良いものを与えるために」
マタイによる福音書12章9〜14節

1.「はじめに:〜安息日の会堂にて」

 会堂での出来事です。イエスも安息日には会堂に来て、聖書(旧約聖書)の言葉を聞き、時に聖書のお話をしたりしていました。そんな時のことです。「そこに片手のなえた人がいた」のでした。彼もこの安息日に神の前に聖書の御言葉を聞き礼拝するために会堂に来ていたのです。しかしこう続いています。


2.「彼ら」

「そこで彼らはイエスに質問して「安息日にいやすのは正しいことでしょうか」と言った。イエスを訴えるためであった。」(10節)

 「彼ら」とは誰でしょう。このところはこの前から続いていることでもあるので、直前を見ると誰なのか分るのですが、この12章1節からのところでは「パリサイ人」という人々が登場してイエスを厳しく問いただしているのです。彼らはなぜそんなにもいきり立ってイエスを責めているかというと、ユダヤ人には安息日の戒めという大事な戒めがあり、安息日には働いては行けない、あれをしては行けないと、事細かく厳しく定められているのです。彼らはその安息日にあれやこれやしてはいけないのに、イエスの弟子達は麦畑で穂を摘んで食べているのを見て「いけないんだ」「しては行けないことをしているではないか」「戒めに違反しているではないか」とそのように責めるのです。「彼ら」というのはこのパリサイ人達のことです。14節でも、「パリサイ人が出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した」とあることからも分かります。その彼らですがこの会堂でも同じように「安息日」のことでイエスに言うのです。「安息日に癒すことは正しいことでしょうか」と。彼らが何度も「安息日、安息日」にこだわる程に、彼らにとっては「安息日」の戒めというのはとても重要だということが分ります。その中でもパリサイ人達はユダヤ教のエリートであり、自分たちも守っていると自負していますし、他の人が守るかどうかにも非常に敏感で、守らないことには厳しい態度にもなりました。


3.「イエスを訴えるため」

 しかしここは会堂です。皆、この会堂に集まり、礼拝をし御言葉を聞くために来ています。そしてそこは神がことばを語ってくださる神の会堂ですから、この会堂はすべての人が神に受け入れられている所です。どんな人にも神は恵み、御言葉を与えられるのですから、会堂、礼拝、教会は、すべての人のための神の恵みの家なのです。けれども「彼ら」はその一人の手のなえた人を巻き込んでですが、彼らの質問には「安息日にはしては行けないのにするのか」という厳しい目があります。そしてそれは、イエスはこれまで通り、当然、病の人を憐れんで癒すだろうということを分っていて、最初からイエスを裁き責める思いで、あえて問いただしていることもここからわかります。ここに「イエスを訴えるためであった」と質問する動機が書かれているからです。「安息日に働いてはいけないと決まっているではないのか」「〜してはいけないだ」「イエスの粗を探し、責めてやろう訴えてやろう」、彼らはそのような思いで会堂に来ているのです。しかしそれはまさに会堂は神の恵みを受ける所であるのに、恵みを受けるへりくだった心ではありません。むしろ「自分がその会堂の神になった」かのように裁き心です。そしてそれは遂には14節にあるように、「どうしてイエスを滅ぼそうかと相談した」そのような殺意の心にまでエスカレートしています。それは明らかに神の前に罪の心であることを示しているのです。


4.「神が私達のために」

A, 「人は羊よりはるかに値打ちがある」

 けれどもこのところが私達に伝える幸いは、イエスの答えにはっきりとしています。それはこの神の前、このみことばの家、会堂、あるいは教会、礼拝はどのような所であるのかが分ります。それは決してパリサイ人のような心の場や時ではない、つまり、神が人をはもちろん、人が人を、裁く場、粗探しの場、重荷の場、「〜しなければいけない。〜してはいけない。こうでなければらない。ああでなければならない」という場では決してないということです。ぜひ始めての人は安心して聞いていただけるところですが、イエスはこう答えています。

「イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に落ちたなら、それを引き上げてやらないでしょうか。」」(11節)

 イエスはパリサイ人達にといます。「もしあなたの羊が」と。羊は当時は家の財産です。その財産である「あなたの羊」がもし安息日に穴に落ちたならどうしますか?と。しれは「助けるではありませんか?引き上げてあげるのではありませんか?」と。これはもう誰にも明らかなことでした。パリサイ人達も当然、そのようにするのです。イエスは、パリサイ人達でも誰でもそうすることを分っていてこう尋ね返しているのです。そして12節、そうであるなら「神は人にどうであるのか」と答えるのです。

「人間は羊より、はるかに値打ちにあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」

 と。「人は羊よりもはるかに値打ちのあるものでしょう」とイエスはいいます。その通りです。人にとってもそうであるし、神にとってもそうであることは、聖書の始めの創世記を見るとはっきりと書かれています。そこでは、神は全てのものを創造して、いのちを与え、愛し、全てのものを見て、非常に良かったといいました。そして全てのものを祝福しました。神は羊はもちろん、全ての動物、自然を愛しました。その中でも、人は、「神のかたち」に似せて造られたとあり、そして、人には全ての生き物や自然を正しく管理するように任せたことも書かれています。そしてその人を何より愛して、ことばを持って交わり、教え、戒め、導いてこられ、楽園に神の愛の平和があったことが聖書の最初に書かれている神と人間との本来の関係の姿です。神はそのように人を、すべての人、私達を、何より大事にしているのです。羊も大事な存在ですが、その羊よりもはるかに値打ちがある大事な大事な存在として私達を見ているのです。

B, 安息日の神の私達へのみこころ」

 この時の会堂は、まさにその神の前です。すべての人が神に受け入れられ、神から恵みを与えられる所ですね。貧しい人も富める人も、赤子からお年寄りに至るまで、病んでいる人も、手のなえた人も、どんな人もです。イエスは事実、どこででも、他の会堂でも、野でも湖の畔でも、通りでも、福音を伝え説教しているその最中でも、神のその御心の通りに、貧しい者や病める人にこそ心をとめ癒しをあたえました。小さな子供達をイエスの所に連れて来た人々に対して、弟子達はその親や子供達を怒って来させないようにしましたが、イエスは逆に、その弟子達を怒って、むしろその子供達を引き寄せ抱きました。まさに神にとって、人、すべての人、どんな人でも、それが弱い立場の人や罪人であっても、羊よりもはるかに値打ちにあるものであり、受け入れられており、ましてこの御言葉の家、恵みの家である、会堂ではなおのことであったでしょう。イエスはまさにここで神の前にあって人は羊よりも値打ちのあるものであり、神は人のために与えるのであり、この安息日も、会堂も、それは神が人に良いものを与えるための時であり、場所であることを、イエスは私達に教えてくれているのです。イエスはいいます。

「それなら、安息日に良いことをするのは正しいことです」

 と。これが今は安息日とはいいませんが、このキリスト教の聖日である日曜日、そしてこの会堂での、神の人へ、私達への思いであるということです。戒めもそうです。十戒も「私達の幸福と祝福のためである」と私達は毎週、教えられ、唱えてもいるでしょう。「神が私達のために」の恵みを表しているものです。安息日というその日も、そして礼拝も会堂も、「神が私達のために」「みことばをもって」「聖餐をもって」「神の、天の良いものを与えて下さる」その素晴らしい時であり場所であり、そのような意味、神から恵みを受ける時であるからこそ、安息日の戒めでは私達は「働かない、しない」と定められているとも言えるのです。ですからむしろ自分たちが神のようになり、人を裁いたり、粗を探したり、訴えたり、殺そうと相談したりしている「彼ら」の方が、まさしく神の御心に反して、無視して、「自分たちが自分たちの思いや事を行なおうとしている」という、矛盾もわかるのです。


5.「神が人のために良いことをしてくださる」

 イエスは、その「神が人のために良いことをしてくださる」そのことを、この会堂でも、その通りに行ないます。

「それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。」(13節)

 神が安息日の戒めを与えて下さった意味、会堂の意味、そして神がイエスを私達のために救い主として与えて下さった目的はすべて一致していますし、まさにこの箇所の会堂にも、そしていつの時代にもかわることなく、今日のこの会堂、教会、礼拝にも、その意味と目的は変わることなく一致しています。それはパリサイ人のようにではない、人の側が「〜でなければらならない。こうでなければならない。ああでなければだめだ。こうでないからだめだ」と裁き、責め、あら探しをする場所、時ではない。「私達が神のために」でもない。神が私達への時、神が私達に良いことをしてくださる、与えて下さる。恵みの御言葉と聖餐を、良いものを与えて下さる、そのような神が備えてくださった神の時、神の私達のためのときであり場所なのです。そしてそれは「すべての人へ」です。手のなえた人も、貧しい人も、小さな赤子からお年寄りに至るまで、どんな罪深い心に苦しむ人であったとしてもです。イエスは「心の貧しい人は幸いです。天の御国はその人達のものだからです」と言いました。「心の貧しい人」とは、自分の罪深さを認めさせられどうすることもできない苦しい絶望的な心のことです。しかしその人のためにイエスは来られ救ってくださるからこそ、「天の御国はその人達のものです」とも言われているのです。神であるイエスがすべての人に、良いもの、救いを、平安を、神の国を、「与えて下さる」のが、この教会、礼拝なのです。そして「受ける」私達もそのイエスから受けて、パリサイ人のように、隣り人をあら探しし、裁き、責めるのではなく、イエスから受けて、そのことを喜び感謝して、「イエスのように」です。イエスのように、この会堂、教会、礼拝ではもちろん、交わりでももちろん、日々の歩みでも、家庭でも、会社でも、イエスのように、全ての人に喜んで愛を与えて行く、恵みを与えて行く、それはイエスのように、罵られても、蔑まれても、馬鹿にされても、見返りがなくても、イエスのように、私達も隣人に愛を与えて行く。私達はここで恵みを受けて、その恵みによって、隣り人を愛していくためにここから遣わされているとも言えるでしょう。しかしそれは、何より「イエスから良いものを受けて」こそです。その神が、今日も、ここで、この礼拝で、みことばをもって恵みを、私達に与えて下さっているのです。


6.「イエスから受ける場(時)、そして私達は世へ」

 ぜひ今日始めて来た人も、まだ聖書を良く知らない人も、安心してください。神は、どんな人でもここに招き、受け入れてくださっています。そして神が、聖書の御言葉を通して、私達に良いものを与えて下さいます。私達が頑張って得るのではありません。神が救いも、罪の赦しも、助けも導きも、神様から、天からの良いものを、私達に与えて下さるのです。私達はそのまま受ければ良い。いやここは「する場」ではなく、イエスを信じてイエスから「受ける場」であり、「受けて」その喜びと信頼に満たされて、そして私達の隣人へ、つまり、社会、家庭、教会にあって、「隣り人へ愛を与えるためにここから『遣わされて行く』」場なのです。それは重荷とはなりません。成果や見返りを期待せず求めず左右されません。ゆえに自分も誰も裁きません。責めません。ぜひ安心して、ここに来て、御言葉を受けてください。イエスが愛をもって私達に与える良いものをそのまま受けてください。そしてぜひ喜びに満たされ、イエスへの信頼に満たされ、社会、家庭に出て行こうではありませんか。