2015年4月26日


「私たちを愛するものとするために」
ルカの福音書 10章25〜37節

1.「はじめに」
 イエスは、十字架が近づいていることを知り、エルサレムにまっすぐと目を向けて進んでいます。弟子達に、ご自身が与えようとしている救いが、苦しみと十字架を通して与えられるものであることを示し始めます。弟子達はそれを理解できません。幼子のような弟子達なのですが、しかしイエスはそのような幼子達にこそ、神が、神の方から、ご自身を通して、神の国を、救いを明らかにされることを喜び、讃美しました。そして弟子達が見て聞いているイエス・キリストと福音こそ、その旧約の預言者や王たちが、見たい聞きたいと願っていたことなのだとイエスは伝えるのでした。そしてある人の質問に始まる、有名な「良きサマリヤ人のたとえ」です。このところには神のはっきりとした私達人類への「わたしたちがなすべき」御心が示されています。つまり「神を愛し、隣人を愛しなさい」ということです。しかしこのところ、エルサレムへまっすぐと目を向けて進み、そして十字架による救いを示し始めるイエスという文脈で見て行くことで、イエスが何を私達に伝えたいのかが見えて来るのです。

2.「律法の専門家とイエスの問答」
「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」25節
 「律法の専門家」は24節のイエスのことばを聞いていたのでしょう。彼はそれを聞いて「試そう」としていうわけです。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」と。「試そう」としての質問ですから、彼自身は分らなくて質問しているのではありません。答えを想定して質問しているのです。イエスは彼に答えます。26節
「イエスは言われた。律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
 律法の書にどう書いてありますか? そう尋ね返しています。そしてその律法の書をどう読むのかと。それに対してこの律法学者は申命記の言葉を引用して答えるのです。
「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」、また「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」とあります。」27節
 彼は申命記の言葉を引用して答えるのです。彼の答えでした。そしてそれは決して間違いではありません。イエスの答えとも一致しています。マタイの22章37節以下のことで同じように律法学者から律法の中で一番大事なことは何かと尋ねられたときに、イエスも同じようにこの申命記のことばから引用して答えています。神を愛すること、そして隣り人を愛すること、それが律法の中で一番大事であり、マタイの福音書のことろでは、それが律法全体と預言者がこの二つの戒めにかかっているとも言っています。しかしこのところの律法学者の質問は、何が大事かではなく、「永遠のいのちを自分のものとするためにはどうしたら良いか」です。その問に対してイエスはこう続けます。

3.「イエスの答え」
「イエスは言われた。「その通りです。それを実行しなさい。そうすればいのちを得ます。」28節
 もし人が、私達、永遠のいのちが自分のものとするために何をすべきか、何をしたらよいかを求めるなら、神の答えははっきりとしています。「心を尽くし思いを尽くし力を尽くし、知恵を尽くしてあなたの神である主を愛せよ。そしてあなたの隣り人をあなた自身のように愛せよ」をそのまま実行することだと。そうすれば、あなたは永遠のいのちを自分のものとすることができるのだと。これは福音である「与えられる救い」と区別する必要があります。そして聖書が福音とは矛盾することをいっているのでもありません。彼は「永遠のいのちのために自分が何をすべきか」と尋ねています。つまり「もし私達が永遠のいのちを、「自分で」得ようとするなら」という問い掛けです。それに対する答えとして言っていることに注意しなければいけません。イエスが与えようとしているものではないということです。しかし同時にそれは一つの大事な真理を伝えてもいるのです。神ははっきりとこのことをするように望んでおり、神はご自身が聖であるように私達にも聖であることを命じているその「聖さ」がここにあるのだということです。そして、もしこれを完全に実行できるなら、聖であり、永遠のいのちを自ら自分のものとすることができるという一つの事実です。そうなのです。律法は永遠に聖なるものです。そしてもしこれを私達が完全に守り行なうことができるなら、私達は聖であり救われるのです。

4.「聖なる神とその律法の前での私たちは?」
 けれども、私達はみな知っています。誰もそれを守ることができない。完全に実行することができないということです。ですから律法を行なうことによって救われないというときには、それは律法の側の問題、律法が劣るとか不完全ということではなく、私達の側、人間の側の圧倒的な現実、事実のことを言っているのです。私達はみな堕落している。みな罪深い。神に反するもの、神の御心を行なえないもの。行いだけでなく、心までも私達は神を愛することも、隣り人を愛することもできないものだということです。ですから、彼のように、律法に自分の救いや聖さを求める時には、神の答え、イエスの答えは変わらなくこれなのですから、人の側はどこまでも自分の不完全さ、罪深さを示されるということをこのところは見事に描写しています。律法に自分の救いの根拠を求めるなら、それは自分の罪深さ、不完全さゆえに、必ず壁にぶつかるか、あるいは、躓いてしまうのです。彼は、それでも「しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」29節と尋ねます。ルカはここで「しかし彼は、自分の正しさを示そうとして」という書き方をしているのは大事なところです。ルカはこのようにその律法の黄金律の前に誰も正しい者はないのだということを既に示唆してこう記していることが分ります。この律法学者は、それを実行しなさいということで、何か自分に引っかかることがあったことを察することができるのです。しかし正しくないことは認められない。そこで彼は自分の正しさを示そうとして、その隣り人は誰なのかと尋ねるのです。

5.「隣人とは誰か?」
 それに対してイエスが答えるのが「良きサマリヤ人」のお話なのです。有名な話しですが、強盗に襲われるのはユダヤ人です。しかしそのユダヤ人の宗教的なリーダーであり、礼拝を司る祭司、あるいは、礼拝に仕えるレビ人、まさに自分たちの同士、同族、仲間である人達は死にそうな同士を見て通り過ぎて行くのです。ここではよく彼らに非難が行きがちのメッセージを聞くですが、しかしイエスのメッセージはそこではなく「誰が隣り人か」ということです。イエスはここで、あるサマリヤ人が、その死にかけているユダヤ人を見て、かわいそうに思い、立ち止まって助けたことにこそ、その答えをおいています。そして、イエスは問います。「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣り人になったと思いますか」36節と。もう誰が見ても明らかです。彼も答えます。「その人に憐れみをかけてやった人です。」と。そしてイエス様はいいます。「あなたも行って同じようにしなさい。」と。これはこの律法学者にとっては耳のいたいというか、かなり大きな壁であったことでしょう。なぜなら、ユダヤ人とサマリヤ人は仲が悪いとよく言われますが、むしろユダヤ人はサマリヤ人を下に見て蔑んでいたからです。交わりもしません。ガリラヤに行くとき、あるいはエルサレムに登るときは、ユダヤ人はサマリヤを避けて遠回りしていったとも言われます。ですからヨハネ4章でサマリヤをイエスが通ったときに、イエスがサマリヤの女に「水をください」とお願いしたことに、サマリヤの女は驚いています。ユダヤ人の男性が話しかける、ましてお願いするということは稀であったからです。ですからこのサマリヤ人を隣人を愛する模範と示され、そのようにしなさいと言われたこと、そしてまさに敵、蔑む相手こそ隣人であり、その隣人を愛することこそ、これが神の求めておられる隣人愛の真理だといわれた時には、この律法学者は答えにつまった、いや答えられなかったと思われます。
 しかし、これが神の聖。神が私達に求めておられる御心であり、聖さであるということですね。これが真の隣り人であり、隣り人を愛するということです。つまり自分が愛することができない人さえも、敵でさえも愛する。相手が敵であっても、自分に不利益をもたらすものであっても、その人のためにかわいそうに思い、その人のために尽くす、行なう、助ける。そのことこそ隣人愛であるとうことです。イエスは、自分を愛してくれる人を愛するのは、強盗さえもしていると言っています。自分を愛してくれる、よくしてくれる隣人を愛することはむしろ容易い。しかしイエスは、聖書が求めている隣人愛はそれ以上のことであることを示しています。本当の隣人愛は自分に敵対するものさえ、拳をあげ、奪うもの、蔑むものにさえも向けられなければならない。愛しなさい。それが聖書が、神が人類に、私達に、求めている隣人愛であるということをイエスははっきりとこの喩えで示すのです。まさに律法の聖さが私達に突きつけられるのではないでしょうか。そして同時に、神の聖さ、その律法の聖さ、完全さの前にある私達がはっきりと示されるはずです。

6.「そして福音へ:イエスはそれを成し遂げてくださった」
 私達はそれをできない罪人であると。そして、私達はここで打ちのめされるのですが、同時に気づかされるのです。イエスは、ここで律法のみならず、福音を私達に語っているということを。イエスは今どこに向かっているか。エルサレムにまっすぐと目を向けて進んでいます。エルサレムに何があるでしょう。何が待っているでしょう。イエスはエルサレムの何を見ているでしょう。ご自身の十字架と復活ではありませんか。弟子達は理解できない。しかしそのことがまさにご自身を通して幼子に現わされることをイエスは見て喜んでいます。旧約の預言者達が見たいと願い聞きたいと願い、見れなかったもの、聞けなかったこと、それはイエス・キリストであり、十字架と復活であり、罪の赦しであり、神の国であり、永遠のいのちであり、福音であったと。まさにイエスは、その十字架で、なにをされるか。このサマリヤ人のすることでしょう。敵である全ての人、神を知らない、神を十字架につけろと、神を否定する全ての敵のために、私達のために、その私達をかわいそうに思って、その敵のために、自分のいのちを捧げ、助けることではありませんか。
 律法の聖さのまえに私達はただただ罪人です。しかしこのイエスこそ、聖なる方であり、聖を私達のために成し遂げてくださり、そして私達は洗礼と聖餐を通して、み言葉を通して、そのイエスがしてくださった聖、救い、いのち、すべてのことを、私たちに与えてくださっているではありませんか。イエスが私のものを全て担い、代わりにイエスのものを私達のものとしてくださっているではありませんか。私達はただこのイエスにあってこそ、罪赦されたものとされます。

7.「それはキリストのゆえにわたしたちに:恵みの聖化」
 それだけでない。その罪の赦しは、すでにこの律法の黄金律を、行なっているものともしてくださっているのです。それは私たちの何かではなく、イエスのゆえにです。ですからイエスはいうでしょう。イエスにしっかりとつながっていなさいと(ヨハネ15章)。そのようにイエスに結び合わされ、キリストを着ているからこそ、キリストのものが私達のものとなって実を結ぶと。ですから私達はこの黄金律の前にあっても、罪人でありながら、同時にキリストにあっては聖であり義なのです。そしてキリストにあるなら、私達は、キリストにあってそのことをさせられて行くともいえるでしょう。キリストが聖く完全なものとしてくださる、私達が行なえないことも、キリストは、行なえるようにしてくださる、導いてくださるということなのです。
「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行い、あなたがたがみこころを行うことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン」ヘブル13章20〜21節 
 私達は、ただただ、自分の不完全さ、罪深さを認めさせられるだけです。しかし、だからこそ、完全な、すべてをしてくださるイエスに祈るもの、すがるものなのです。それが私達の全てです。そして主がさせてくださると求め、信じることで私達は平安を持つことができるでしょう。だからこそ罪赦されて、イエスとともに遣わされることはなんと平安で、幸いなことでしょうか。今日もイエスの十字架のゆえに罪を赦されていると宣言を受け、確信と平安をもってここから遣わされていこうではありませんか。