2015年4月19日


「信じることの恵み」
ヨハネの福音書 20章24〜31節

1.「はじめにー「信じる」とは?」
 教会に来ると、「信じる」とか「信仰」という言葉をよく耳にするのではないでしょうか。事実、教会は「聖書は、誰でも信じるだけで救われると教えている」と伝えるのです。今日の所でもイエスは「信じる者になりなさい」とも言っています。ではその「信じる」とか「信仰」とかどのようなものなのでしょう。「信じる」というのは、私達の努力や鍛錬の賜物なのでしょうか。他の宗教では、確かに私達の努力や鍛錬によって信仰や宗教が成り立っているようなのがほとんどかもしれません。けれども聖書の伝える「信じる」「信仰」ということはどういうものなのでしょう。

2.「信じないトマス」
 この出来事は、イースターの出来事です。イースターというのは、十字架にかかって死んで墓に葬られたイエスが、死からよみがえったということです。それは十字架にかけられ死んでから三日目の出来事でしたが、その日イエスは弟子達の所に現れて、そのよみがえった身体を弟子達に見せ触らせたのでした。しかしです。
「十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。」24節
 イエスが現れた時に弟子のトマスはいませんでした。イエスと出会った弟子達はトマスが帰ってきた時にそのことを伝えます。イエスがよみがえって自分たちの前に現れたのを見て触れた弟子達はトマスにもそのことを伝えずにはいられなかったことでしょう。しかし、
「それで、ほかの弟子達が彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また、私の手をその脇に差し入れてみなければ決して信じません」と言った。」25節
 「手の釘の跡」とか「脇に」とあるのは、十字架の出来事を指しています。イエス・キリストが手と足に釘を打ち付けられ十字架にかけられたことと、「脇」というのは十字架上でイエスが息を引き取ったのを見たローマ兵が死を確認するために、イエスの脇腹に槍を突き刺したと書いているそのことです。トマスは「自分は信じない」といいました。弟子達は自分たちはよみがえったイエスのからだに触ったのだと言ったことでしょう。その手の穴や脇を見て触れたことでしょう。それをトマスに話したことでしょう。しかしトマスは「自分は信じない。自分はその傷の跡を見るだけでも信じない。その跡に自分の手を差し入れてみるまで信じない。」そのように言うのです。「死者がよみがえった。そんなこと信じられない。」ートマスの答えです。しかし皆さん、それは全ての人の同じ応答ではないでしょうか。「死んだイエスがよみがえった」ー信じられないことでしょう。ありえないことでしょう。そうなのです。信じられないことなのです。けれども「イエスが死からよみがえった。」ーそれはキリスト教の教えの中心部分です。そしてそれがイエスが与えてくれる救いにとってなくてはならない出来事です。そしてキリスト教で、信じるというとき、この十字架とそしてイエスのよみがえりを信じるということです。しかし、トマスはいいます。「信じられない」と。それは皆そうでしょう。私達には信じることができないことです。トマスだけではありませんでした。それはイースターのメッセージとして先週まで見てきましたが、他の弟子達もそうであったのです。彼らも始めは信じられなかったことが書かれています。しかも弟子達はイエスが十字架にかかる前に、あらかじめイエスから「わたしは死んで三日目によみがえります」と伝えられていたのでした。けれどもその十字架の死から三日目の朝に、彼らは「さあ、イエス様がよみがえる。」と楽しみに墓の前で待っていたのではありませんでした。むしろ逆に彼らは十字架の死のときから、がっかりして、失望して、悲しんで、恐れて、部屋を閉ざして閉じこもっていました。このイースターの朝もそうでした。マグダラのマリヤという女の弟子が、墓のイエスの遺体に香油を塗るために墓にやってきます。しかし墓に着くと、その入り口は空いていて、墓の中にイエスの遺体はありませんでした。彼女は誰かが墓を荒らして遺体を持って行ったのだと思って弟子達に知らせ、弟子達も空っぽの墓を確かに確認するのですが、しかしそれでも彼らはイエスがよみがえったのだとはなりませんでした。彼らは信じるどころか、イエスのことばさえも忘れてしまい、彼らは再び、同じ部屋に戻り、閉じこもってしまったのです。弟子達も信じることができませんでした。このように、弟子達一人一人は弱い存在でした。罪深い存在でした。「信仰」「敬虔さ」という言葉とは異なる彼らがそこにはいました。彼らはイエスの十字架の前に「他の弟子達が裏切っても自分は決して裏切らない。どこまでもついて行く」とみな声を揃えて決心し誓ったのに、しかし十字架の時には皆逃げて行き、ペテロと言うリーダーは、イエスを三度知らないと否定しました。それが彼らの決心や力でした。彼らは信仰とか、救いとか、神のことのために、むしろ何もできない弱く力のない一人一人であったのです。そして何よりこの「信じる」ということにおいてさえもそうであったことこそイースターの出来事が伝える弟子達の姿、いやそれは私達人間の姿であり現実であることを伝えているのです。私達は自分たちでは決してこの「イエスが死からよみがった」ことを信じることも理解することもできないのです。聖書はそのことを弟子達やこのトマスを通して私達に示しているのです。

3.「トマスは信じる信仰を与えられた」
 しかしこの後です。「八日後に、弟子達はまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」 26〜27節。そしてトマスはいいます。
「トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神」28節
 これは信じないトマスから一転、トマスの信仰の告白です。トマスは信じました。信仰を告白しました。しかしその信仰の告白はイエスに導かれて、イエスの方からかの働きかけ、主導権によって、トマスに「与えられた」ものだと分るでしょう。まず、戸が閉ざされています。イエスがノックして弟子達が開けに行ったということでもありません。弟子達はイエスが入って来るなど知らないでいます。しかしそこにイエスが、閉ざされていた戸も通り、イエスの方から彼らの前に現れるでしょう。そしてイエスの方から語りかけられ、祝福と平安を与えてくれています。「平安があなたがたにあるように」と。そして、イエスはトマスの八日前の言葉を知っています。誰が伝えた訳でもありません。イエスは、トマスが、「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また、私の手をその脇に差し入れてみなければ決して信じません」と言ったその通りのことをするように言っているのです。「手を伸ばして、わたしの脇に差し入れなさい」と。それは、トマスのことも、トマスのその言葉も、皆知っているし、その通りにあなたにさせよう、という意味があることを、トマス自身が何よりも思わされたことでしょう。そのようにして、イエスはトマスの言う通りに、トマスに触れさせ、そのトマスの手を自分の傷の跡に刺し通させるのです。そしてイエスは「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言っているのだということです。ですから、よく「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」という言葉だけ一人歩きして、「自分たちが自分たちで信じなければならない」という意味でとらえてしまいやすいのですが、そういう意味ではありません。まさにイエスの方から信じないトマスのことを知り、そのことばを知り、そのトマスの所に、イエスの方から現れ、その身体を現わし、触らせ、トマスのことばのとおりにイエスが刺し通させることによって、トマスを信じるようにさせているでしょう。トマスが信じるためにこそ、イエスはもう一度現れ、トマスがいる時に現れ、このことをされていることがわかるのです。そしてトマスが信じるように、全てをイエスの方から示して、与えて、そして「信じる者になりなさい」と言っていることが分るのです。このように信じるということ、信仰ということは、主イエスの恵みであり、与えられるものだということです。主イエスが信じるように働いてくださって導いてくださるということです。他の弟子達も実にそうであったことを思い出すことができます。同じように信じることができないで閉じこもっていた弟子達の所に、やはりイエスの方から現れて、同じように「あなたがたに平安があるように」と言われて、同じように、イエスの方から、その身体を見せ、触らせ、彼らが触れたからこそ、彼らは喜んだとあるのです。信じたのです。イエスが信じるようにしてくださった、その信仰でした。その信仰でトマスにも「私たちは主を見た」と言ったのでした。このように、信じるということ、信仰というのは、そのように聖書においてはどこまでもそれは神からのプレゼントなのです。

4.「イエスによって与えられる、賜物としての信仰と救い」
 聖書の他のところを見てもわかります。使徒の働きの3章には、美しの門に座る足の不自由な人が癒される場面がありますがそこでペテロはこう言っています。
「そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。」 使徒の働き3章16節
 ペテロは、「イエスによって与えられる信仰が」とはっきりと言っています。そして、パウロという使徒もこのように伝えています。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。誰も誇ることがないためです。」 エペソ人への手紙2章8〜9節
 信仰、そしてそれによる救い。それは「自分自身から」「私達自身から」出たものではないと言ってます。行いではないと言っています。もし私達自身の業なら、私達自身から出たものなので、それは私達は自分たちを誇るようになるであろう。しかし、そうではなく、信仰も救いも、それは恵みであり、神からの賜物だと言っているのです。
 皆さん、信じるということは、私達の努力や鍛錬の業ではありません。頑張って信じようとして信じることができる、そのようなものが信仰であるとは言っていません。むしろそうであるなら自分を誇ってしまうことになると警告さえしています。そうではない。信仰は神からの恵みであり賜物なのです。導かれイエスが信じるようにしてくださり、与えて下さった、あるいはこれからも与えて下さるものなのです。29節のことばも、これは律法や義務ではありません。幸いなことを伝えています。
「イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信ずるものは幸いです。」29節
 と。このところは「見ずに信じなければいけない。示されずとも信じなければいけない」と理解するなら、信仰がイエスから与えられるということや、賜物、恵みであるということと矛盾します。このトマスに現わされたこととも矛盾します。私達が見ずに信ずることができる力があるということにもなり、それは自分を誇ることになってしまうでしょう。そうでなない。トマスは見て信じることができました。見せたのはイエスです。それゆえに信じる者になりました。そして「見ずに信じないから駄目だ。見ずに信じる者になりなさい。」とはイエスは言っていません。「見ずに信ずるものは幸いです」と言っています。皆さん、これはまさに見ずとも、与えられて信ずる教会を指しているでしょう。私達の幸いではありませんか。私達はイエスの復活の身体を見ても触れてもいません。しかし、今まさに信仰があるでしょう。見ず信ずるものではありませんか?それは不思議なことです。信じることができないことです。しかし信じている私達。それはまさに奇跡です。私達自身にはありえないこと。しかし今信じている。それはまさにイエスが、信仰を与えて下さったからです。信仰は賜物であり恵みであることの証しは、私達は見ずとも、今、イエスがよみがえられたと信じ、信じて洗礼を受けて、そして見ずとも、御言葉と洗礼によって救いの確信が与えられ、平安のうちに遣わされていることそのものに、イエスの恵みのあかしと私達の幸いがあるのだということです。ですから、信仰はまだ信じていない人への脅しや、命令や強制ではない。信仰は強いてはいけません。ましてキリスト教にあっては。なぜならキリスト教の救いの信仰は与えられる恵みであり賜物だからです。

5.「何を通して与えられるのか」(30〜31節)
 それは何を通して与えられるでしょう。み言葉を通してです。30〜31節で使徒ヨハネはそのためにこそ福音書を書いたと言っています。聖書のみ言葉を通して神は私達に語りかけ、そのことばは創造し新しくし不可能なことは何もない生ける言葉として、私達が信じて、いのちを得ることができるようにする神のことばなのです。ですから「信じなければいけない、信じなければ救われない」ではないのです。神はあなたに語りかけている。信じるように。そして信じさせてくださるのです。それはクリスチャンであってもそうです。聖書に「信仰に始まり、信仰に進ませる」とあります。イエスから与えられた信仰はイエスによってみ言葉を通して養われて行きます。どこまでも信仰も信仰の歩みも恵みであるということです。私達は信仰を人のわざや強制や義務とすることなく、どこまでもイエスの恵みとして信仰が与えられていることを、喜び、感謝して、平安な気持ちで、新たに過ごしていこうではありませんか。